歌詞のないカラオケ
夕凪レイの曲を入れると、カラオケ画面は最後の一行だけを勝手に表示した。
父の秋津真一は、娘の三回忌に一人でボックスへ入った。レイが高校時代に投稿した曲は、配信サービスから消えている。それでも古い端末には番号が残り、伴奏だけが流れた。
歌詞欄は最初から空白だった。レイは自分で歌うため、文字を登録していなかったのだ。
真一は旋律だけを頼りに、覚えているところを歌った。映像には、レイが好きだった夜明け前の海だけが流れる。Aメロで声が掠れ、サビでは音程バーを何度も外した。採点は容赦なく数字を下げたが、真一は初めて、娘の曲を途中で止めなかった。娘が家を出た夜、同じように言葉を外したことを思い出す。
「戻ってこい」
それを言えばよかった。だが真一は「勝手にしろ」と怒鳴った。レイは海外で歌手になり、二年後、事故で死んだ。遺品には真一宛ての封筒が三通あったが、どれも宛名だけで中身は白紙だった。書き始めては言葉を消したのだろう。真一も同じだった。毎年命日に電話番号を開き、発信せず閉じた。今回は、その代わりに娘の曲番号を押した。
幼いころ、レイは捨て猫を見つけるたび、父の真似をした。
「帰っておいで。怖くないから」
真一は猫には言えたのに、娘には一度も言えなかった。
曲の最後、伴奏が消え、画面に一行が浮かぶ。
〈帰っておいで〉
真一はマイクを落とした。レイが自分を呼んでいるのだと思った。死んだ娘のところへ帰れ、と。
店員を呼び、端末の歌詞データを調べてもらう。登録欄は空のまま。代わりに「採点用音声認識字幕」が有効になっていた。曲が終わった直後、マイクが真一の小さな声を拾い、歌詞と誤認して表示したのだ。
録音を聞く。最後の一音のあと、真一自身が泣きながら囁いている。
「帰っておいで」
存在しない最後の歌詞は、娘が父を死へ招く声ではなかった。
父が三年遅れて、ようやく娘へ渡せた帰宅の言葉だった。
画面から文字が消えても、部屋にはその声だけが残った。