止まったランニングマシン

 璃子が休憩に入る頃、ランニングマシンは一台だけ動いていた。

 二十四時間営業のフィットネスジム。深夜の清掃担当として、璃子は床を拭き、タオルを集め、機械の手すりを消毒する。壁一面の鏡には白い照明が倍になって映り、空調は汗の匂いを薄く運んでいた。

 午前二時四十五分。休憩室のドアを閉めても、ベルトの回転音が壁越しに届く。

 たん、たん、たん。

 一定の足音。

 自販機のファンが回る。

 外では雨が看板を叩く。

 璃子は制服のポケットから小さなパンを出した。昼間に買い、食べないまま潰れたものだった。

 鏡の多い職場で働くようになってから、自分の姿を見ない技術だけが上手くなった。客のフォームは確認できる。床の汚れも見つけられる。けれど休憩室の黒い窓に映る自分には、目を合わせたくなかった。

 先週、友人から「最近どう?」と聞かれ、「普通」と返した。何が普通か考える前に、話題は別の人の恋愛へ移った。

 璃子は休憩室の手鏡を伏せた。清掃用具の棚を確認するために置かれている小さな鏡で、角にひびがある。伏せれば何も映さないが、鏡そのものはそこに残る。自分のことも同じように扱ってよい気がした。今夜は見つめなくても、消えたことにはならない。

 壁の向こうで、足音が少しずつ遅くなる。

 たん。たん。たん。

 やがて電子音が鳴り、ベルトが減速した。回転が止まるまでの低い唸りが長く続く。

 璃子はパンを一口食べた。

 休憩室の小窓からフロアを見ると、最後の利用者がマシンの手すりを丁寧に拭いていた。備え付けのクロスを畳み、璃子のいる窓へ気づくと、軽く頭を下げた。

 璃子も頭を下げた。

 利用者はイヤホンを外さないまま出口へ向かった。自動ドアが開き、雨の音が一度大きくなり、すぐ閉じる。

 フロアには止まったマシンだけが並んだ。

 静かになったのに、先ほどまでの足音が床に残っているようだった。誰かは自分のために走り、自分の汗を拭き、夜の外へ帰った。璃子のためではない。そのことがかえって楽だった。

 休憩終了まで二分。璃子は潰れたパンを最後まで食べた。

 空調が回り、看板を雨が打つ。次は止まったベルトを拭く。

 鏡に映る自分を好きになる必要はない。ただ今夜は、その人影を消さずに作業へ戻れそうだった。