歯みがきの水が止まるまで
有馬は、隣室の歯みがきの音を時計代わりにしていた。
午前一時四十分ごろ、洗面所の照明が点く気配がし、水道が短く流れる。電動歯ブラシの細い回転音が二分続き、もう一度水道。コップを置く音。そこで隣の一日が終わる。
有馬の一日は、なかなか終わらなかった。
ベッドへ入ってもスマートフォンを見続ける。仕事の連絡、友人の旅行写真、知らない人の部屋、知らない人の朝食。画面を閉じると、自分だけが何も持たないような静けさが来るので、眠くても次の動画を再生した。
今夜は窓に雨が当たり、空気清浄機のファンが一定の速さで回っていた。天井灯は消してあるが、画面の光が顔と枕を青く照らしている。
画面には『眠る前に見る動画』という再生リストが続いていた。眠るために開いたはずなのに、一本終わるたび次が始まり、朝へ近づく。有馬は誰かの整った夜を眺めながら、自分の歯を磨くことさえ後回しにしていた。
一時四十分。
壁の向こうで水が流れた。
電動歯ブラシが始まる。有馬はいつものように、音が止まったらスマートフォンを置こうと思った。けれど二分後、回転音は止まっても動画を閉じられなかった。
向こうで水道が流れる。コップが置かれる。
そのあと、珍しくもう一度だけ水が流れた。何かを洗い忘れたのかもしれない。日課にもやり直しがある。
有馬は動画を途中で止めた。
洗面所へ行き、自分の歯ブラシを手に取る。鏡の中の顔は疲れていたが、評価はしなかった。二分のタイマーを押し、回転音を聞く。隣の音はもうなく、自分の機械だけが小さな洗面所を満たした。
終わって水を流し、コップを置く。
部屋へ戻ると、スマートフォンには再生途中の画面が残っていた。続きを見ることもできた。有馬は保存もせず、アプリを閉じた。
空気清浄機と雨の音だけになる。誰かより早く眠る必要も、誰かの一日を最後まで見届ける必要もない。
枕元の照明を消す。隣室は静かだった。有馬はその静けさを合図にせず、自分で終えた二分のあとへ横になった。