残り時間のパン
塔野マヒルは市場のパンを掴み、残り時間を確認した。
《黒麦パン》
価格:接続時間二時間
《あなたの残り接続時間:二時間三分》
この世界では金の代わりに、ログインできる残り時間を支払う。残りが減るほど身体は薄くなり、ゼロになった者は光へ消えた。誰もそれをログアウトとは呼ばなかった。死だと思っていた。
ログアウト不能になった後、プレイヤーたちは一秒でも長く残ろうと何も買わなくなった。市場は干上がり、NPCの子供たちは空腹で倒れた。
マヒルの前にも、小さな少年がいる。三日何も食べていない。パンを買えば、彼女の残りは三分になる。
「やめろ」と仲間が腕を掴む。「ゼロになったら消える」
「でも、この子は今消える」
マヒルは購入を押した。身体が半透明になり、残り三分。パンを少年へ渡すと、彼は半分だけ食べ、残りを返した。
《返品》
返却時間:一時間。
時間が一時間三分へ戻る。少年は笑った。
「全部あげたら、お姉ちゃんがいなくなるから」
その仕組みを見た市場のNPCたちが、プレイヤーへ商品を渡し始めた。買って、分けて、返品する。時間は人から人へ巡り、誰か一人だけがゼロにならないよう支え合う。
だが市場の外で、魔獣が少年へ襲いかかった。マヒルは庇い、落としたパンが泥へ沈む。返品できない。
残り三秒。
仲間が自分の時間を渡そうとするが、購入する商品がない。マヒルは少年の頭を撫でた。
「ごちそうさま」
ゼロ。
身体が光へほどける。痛みはない。次に目を開けると、現実の接続室で、職員たちが彼女のヘッドギアを外していた。
消えた者は死んだのではない。契約されたセッション時間を使い切り、順番に外へ戻っていた。残った者ほど、それを見届けられず、死だと思い込んだだけだった。
現実へ戻ったマヒルの端末には、市場の少年から小さな受領印が届いていた。NPCの商品はデータでも、渡した時間は本物だった。彼女が使い切った二時間は、少年を生かし、残った仲間へゼロを恐れない手本を残した。
《残り接続時間を使い切りました》
《セッションを正常終了します》
《市場で消失と呼ばれていた現象の正式名称――ログアウト》