母の姓を残す婚姻書

婚姻書には、ルメアの名が「ルメア・皇帝家」と書かれていた。

母から受け継いだ姓が消えている。

皇帝シルヴァリクとの結婚を嫌っているわけではない。だが、貧しい仕立屋だった母の名まで捨てる気はなかった。

「署名できません」

大聖堂が静まり返る。

シルヴァリクは隣国の王を公開裁判で処刑した皇帝だ。祭司たちは、彼の花嫁が拒否した瞬間を見て青ざめた。

皇帝は怒らず、ルメアの手元を見た。

「羽根が硬いな」

彼女が長時間書くと指を痛めることを覚えていて、柔らかい羽根ペンへ替えさせる。

「理由を聞いてもいいか」

「母の姓を残したいです。皇帝家の名だけになるのは嫌です」

祭司長が口を挟む。

「皇妃は生家を離れ、帝国の母になるものです」

シルヴァリクの視線で、祭司長が黙った。

「彼女の母を消して、帝国の母にするのか」

「古法でございます」

皇帝は婚姻書を取り上げ、ルメアの名を勝手に書き直さなかった。

「どの名で署名する」

「ルメア・ファルネ。結婚後も同じです」

「そうしろ」

宰相が慌てる。

「皇室系譜に前例がありません」

「今できた」

「国民が、陛下の家へ入る意思がないと受け取ります」

ルメアは息を吸った。

「結婚はします。でも、名前まで譲るとは言っていません」

シルヴァリクは彼女の言葉を聞き、婚姻条項へ追記した。夫婦別姓、財産の独立、離婚申請の権利。

「ここまで必要ですか」とルメアが尋ねる。

「必要になったとき、余の許可を求めなくて済む」

彼女は自分の姓で署名した。

皇帝も隣へ名を書き、全員の前で婚姻書を掲げる。

祭司長はなお、シルヴァリク自身が本当は皇帝家の姓を名乗ってほしいのではと尋ねた。

「望んではいる」

皇帝は隠さなかった。

「だが、望みを叶える役目を彼女へ課すつもりはない」

ルメアは、その正直さに救われた。何も欲しがらないふりではなく、欲しながら奪わない。それこそが、恐れられる皇帝が彼女にだけ示す節度だった。

「本日、余はルメア・ファルネと結婚する。彼女の名を奪って皇妃を作るつもりはない。呼び方を勝手に変えた者は、皇命違反とする」