水で書く名前
書道部最後の日、瑤子は墨を使わなかった。
硯を洗い、筆を吊り、余った半紙を後輩へ渡す。三年間使った教室は、墨の匂いだけを残して少しずつ普通の部屋へ戻った。
征矢が、バケツの水を廊下へ運ぼうとしている。
「それ、貸して」
瑤子は一番太い大筆を水へ浸した。
「何を書くの」
「最後の作品」
「床に?」
「中庭なら怒られない」
二人はバケツを持って外へ出た。
夕方のコンクリートへ、瑤子は大きく一画を引いた。透明な水が光を含み、濃い灰色の線になる。
最初に書いたのは、部長だった自分の名。
瑤子。
二文字目を書き終えるころ、一文字目の端がもう乾き始めていた。
「下手」と征矢が言う。
「水だから滑る」
「全国展の言い訳に使えない」
「最後くらい褒めて」
「字が消える速度はきれい」
征矢も筆を取った。
彼は自分の名を、瑤子の隣へ書いた。勢いが強すぎて、水滴が制服の裾へ飛ぶ。
二人は後輩の名前、顧問の名字、文化祭で書いた四字熟語を順番に並べた。中庭が濡れた文字で埋まっていく。
けれど書いたそばから、乾いた風が消していった。
「写真、撮らないの?」
征矢が訊く。
「撮ったら残る」
「作品は残すものでしょ」
「書道は、書いてる時間のほうが長い」
「紙ならもっと残る」
「紙でも、書いた瞬間は一回だけ」
瑤子は入部したころ、自分の字が嫌いだった。教本の形へ近づけるほど、自分が薄くなる気がした。二年の冬、征矢に「瑤子の払いは、逃げる直前みたい」と言われ、腹を立てた。でも、その言葉から払いを隠さなくなった。
水の字は、直す間もなく消える。
失敗した線も、うまくいった線も、同じ速さで薄くなる。
最後に二人は、校舎いっぱいの大きさで「青春」と書こうとした。
「それは恥ずかしい」と征矢。
「最後だから」
「だから恥ずかしい」
「じゃあ『書道』」
「説明的」
「『完』」
「終わらせすぎ」
相談しているうちに、バケツの水は残りわずかになった。
瑤子は一文字だけ書いた。
「続」。
征矢がその隣へ、勝手に点を打った。
「その字に点はいらない」
「句点」
「続くのに?」
「今日の部活は、ここで終わるから」
二人が言い合う間に、文字の左側から乾いていった。
「続」は「売」に見え、「士」に見え、最後は小さな点だけになった。
その点も消えるまで、瑤子たちは中庭に立っていた。
何も残らなかった場所ほど、どんな字を書いたかを、二人は長く覚えていた。