海に投げない鍵

 管理事務所が閉まるまで、あと九分だった。

 森下静流は、海沿いの古いマンション前で一本の鍵を握っていた。明日から取り壊しが始まる。退去者は今日中に鍵を返さなければならない。

 久世統哉が、車の助手席から降りてきた。

「それ、まだ持ってたの」

「返すために来た」

「ただの鍵なのに」

「それを言うんだ」

 二年前、大型台風で電車が止まった夜、統哉は元恋人を二人の部屋へ泊めた。近くに避難所がなく、ほかに行く場所もなかったという。

 その部屋は、静流が初めて「ただいま」と言えると思った場所だった。食器も家賃も半分ずつで、玄関の鍵だけは二人の区別がなかった。

 静流が傷ついたのは、泊めたことではない。

 統哉は一週間黙っていた。洗面所で知らない髪留めを見つけた静流に、最初は同僚のものだと嘘をついた。

「ただの避難だった」

「嘘をつく必要はなかった」

「嫉妬されると思った」

「するかどうかを決めたのは誰」

 風が強く、海の匂いが空になった部屋からも流れてくる。窓際には家具を置いていた四角い日焼け跡があり、何もないのに二人分の暮らしだけが見えた。

管理人が入口の札を裏返した。

 統哉は言い訳を続けず、鍵へ手を伸ばさない。その距離の取り方を、あの夜にも選んでほしかったと静流は思う。

 静流は統哉をまだ好きだった。だから好きと言えなかった。あの部屋を思い出すたび、帰る場所に自分の知らない夜がある。

「鍵、海に投げるかと思った」

「ドラマみたいなことしない」

「静流はそういうの嫌いだったね」

「覚えてるなら、ただの鍵って言わないで」

 統哉は黙り、手のひらを開いた。受け取るのか、返却口へ入れるのか、静流に任せるための形だった。

「この鍵で、私が帰ってくると思ってた?」

「思ってた」

「元恋人を泊めた夜も?」

「帰ってきてほしかった。だから怖くなって嘘をついた」

「最低」

「うん」

 閉鎖時刻のベルが鳴る。

「ただの鍵じゃない」

 静流は鍵を握り直した。

「私が帰れると思ってた場所そのものだった」

 彼女は返却口へ鍵を落とした。金属音が一度だけ響く。

 それでも統哉の車には乗った。助手席の中央に置かれた彼の新居の鍵には触れず、自分でシートベルトを締める。スマートフォンに残る彼の番号も、消さないまま海沿いの道を離れた。