海を描かなかった画家

宇賀神茉白の個展に、絵の具で汚れた自分が乱入した。

美術館の並行作品展は、AI補助を受け入れた作家と拒んだ作家を同時展示する企画だった。こちらの茉白は脳内イメージを生成AIへ直結し、世界的画家になった。向こうの茉白は筆だけで描き続け、地方の画材店で働いていた。

「これは絵じゃない」と向こうが、巨大な海の映像を指した。

「売れないことを純粋さに言い換えないで」

観客は喜び、二人の口論を配信した。こちらの茉白は一秒で千枚の波を生み出せる。だが近年、自分がどの波を選んだのか思い出せなかった。向こうの茉白は一枚に半年かけ、家賃のため何度も制作を中断した。

「あなたの海には、手がない」

「あなたの海には、見る人がいない」

向こうの茉白が取り出したのは、未完成の小さな絵だった。二人が子どもの頃、亡き父と見た灰色の海。こちらの記憶にもあるが、AIは市場反応が悪い色として何度も青へ補正した。

茉白はその絵を奪い、「下手」と言った。向こうは「知ってる」と答えた。

その一言が、羨ましかった。こちらの茉白は、下手なまま終える権利を失っていた。生成AIは常に完成させ、観客は常に評価した。

展示最終日、彼女は中央のスクリーンを消し、白いキャンバスを置いた。何万人が見守る前で、筆を持つ手は震えた。最初の線は曲がり、海には見えなかった。

スポンサーは契約を打ち切り、批評家は復古趣味と笑った。茉白はAIを捨てなかった。ただ、生成部分と自分の筆跡を作品ごとに表示し、未完成のまま公開する規則を作った。

半年後、向こうの自分へ灰色の海を送った。返信された絵には、同じ場所へ不格好な太陽が足されていた。

〈勝手に直した〉

茉白もこちらの絵へ、もっと下手な鳥を一羽描き足した。

二つの海はどちらも本物ではない。だからこそ、誰の手が迷ったかだけは隠さなかった。

次の個展で、子どもが灰色の海を指し、「きれいじゃない」と言った。茉白は反論せず、「私もそう思う日がある」と答えた。観客が困る沈黙を、AIに埋めさせなかった。その空白に、絵の前で立ち止まる時間が生まれた。