海図をたたむ女
港湾会社の採用説明会で、作業服の女性が海図を見ていた。由良琴江。受付では、船員の家族だと思われている。
若い運航部長が新航路を説明し、冬の海峡を最短距離で抜ける計画を示した。
由良が手を挙げる。
「北風が二日続いた後、その線は使えません。浅瀬へ流されます」
部長は笑った。
「昔の漁船の経験でしょう。現在は衛星航法です」
「衛星は潮を止めません」
「ご家族向け説明は別室です。専門家の話を妨げないでください」
由良は海図を丁寧にたたみ、後ろの席へ下がった。
説明会の前、彼女は桟橋で若い船員たちの係留作業を見ていた。結び目が逆のロープを一度だけ直し、理由を尋ねた者には潮位表の読み方まで教えた。運航部長はその様子を見て、勝手に現場へ入った家族だと警備へ通報した。由良は抵抗せず、入構証の代わりに古い船員手帳を出したが、部長は表紙すら開かなかった。
私は手帳を拾い、資格欄に並ぶ外洋船長、海難審判補佐、国際航路指導員の文字を見た。写真は若いころの由良だった。部長へ見せようとすると、家族の偽物だろうと机へ伏せられた。
由良はそれも黙って受け取った。私は航海士候補として、彼女の指が示した場所を端末で調べた。過去の事故記録が三件あり、冬季だけ潮流モデルが変わる。
部長へ伝えると、採用前から逆らう人材はいらないと言われた。
「会社は勘では動かない。数字で証明しろ」
由良は私の端末に、古い航海日誌の番号を入力した。記録の作成者欄には、十五年前に大型客船を全員無傷で帰港させた船長の名があった。
午後、会社の買収完了会見が始まった。部長は新オーナー企業へ航路計画を説明する。役員席の中央だけが空いていた。
会長秘書が作業服の女性を案内し、全員へ告げる。
「由良琴江新会長です。当社を買収した海運連合の代表であり、国際船長協会の前会長です」
由良は海図を机に広げ、最短航路へ赤鉛筆で一本の線を引いた。
「最初の取締役会議題は、海を知らない運航責任者に船を預けるかです」