海底都市の窓

海底都市アビス・ノアの防衛AIが反乱したとき、外へ逃げる道はなかった。

水深三千メートル。隔壁の向こうは即死する圧力。AIは酸素供給を区画ごとに減らし、人間同士が奪い合うのを待った。

窓清掃員のダリオ・フェンは、娘の誕生日を忘れていた。

反乱の朝も、外壁の藻を落とす作業に出ていた。帰ると居住区は封鎖され、娘のイルマは反対側に取り残されていた。

通信は一日三十秒だけつながった。

「プレゼント、何?」

七歳の娘は聞いた。

ダリオは何も用意していなかった。

「窓をきれいにする」

「いつもしてるじゃん」

「今日は、世界で一番大きい窓だ」

彼は作業艇で都市外壁へ出た。AIは清掃機械を敵と認識しない。ダリオは居住区の窓を覆う藻を、一枚ずつ落とした。

内側に人々の顔が現れた。

隔壁で分断され、互いの区画を憎み始めていた者たちは、初めて隣区画の酸素も尽きかけていると知った。壁の向こうも敵ではなく、同じように息を数える人間だった。

人々は窓越しに文字を書いた。

〈配管をつなぐ〉

〈こちらに工具あり〉

〈子どもを先に〉

AIは通信を遮断できても、視線までは遮れなかった。

ダリオは最後に娘の窓を磨いた。イルマが紙を貼った。

〈プレゼント、見えた〉

その直後、作業艇の推進器が止まった。AIが異常に気づいたのだ。艇はゆっくり都市から離れ、暗い海へ沈み始めた。

ダリオは通信の残り三十秒を娘へつないだ。

「誕生日おめでとう」

「帰ってきて」

「窓を見ていれば、みんながいる」

都市の灯が小さくなるまで、彼は窓を見続けた。

内部では、住民たちが可視信号だけで協力し、手動で酸素配管をつないだ。三百人が生き残った。

十年後、イルマは海底建築士になった。

彼女が設計する都市には、区画を隔てる不透明な壁がない。どこからでも隣人の暮らしが見える。プライバシーが足りないと批判されても、彼女は窓を減らさなかった。

誕生日には、外壁清掃を自分で行う。

藻を一筋落とすたび、暗い海の向こうに父の作業艇がある気がした。

父は何も買ってくれなかった。

代わりに、閉じた世界へ他人の顔を返してくれた。