湯気を揺らさない戸枠
フローラが辺境へ着いた日は、初雪だった。
廃屋の扉は閉まる。閂も掛かる。けれど戸板と枠の間に指一本ぶんの隙間があり、北風が細い刃のように入り込んでくる。暖炉へ火を入れても、椅子に座ると足首だけが冷えた。
風の神殿で巫女をしていたフローラは、嵐を鎮める力を持っていた。港を救った夜は讃えられたが、神官長の船だけを優先しろという命令を拒むと、「風に見放された巫女」とされ、神殿を追われた。
大きな嵐はもう止めなくていい。
今日止めるのは、戸口から入る一筋だけ。
雪はすでに敷居へ白い線を作っていた。フローラはそれを箒で外へ払い、線の内側を自分の暮らしと決めた。境界は神官長の祝福ではなく、羊毛と蝋で作ればよかった。
フローラは羊毛を細く裂き、松脂と蜜蝋を温めた。柔らかくなった蝋へ毛を練り込み、長い紐のように伸ばす。それを戸枠の溝へ押し込み、木片で均す。下側には革を打ち付け、雪が吹き込む場所を塞いだ。
試しに扉を閉める。
まだ頬へ風が当たる。フローラは目を閉じ、音ではなく肌で隙間を探した。蝶番の上、爪ほどの穴。そこへ最後の羊毛を詰める。
試しに卓上へ鳥の羽根を立てる。さきほどまで震えていた羽根は、今度は真っ直ぐ動かない。小さな成功を確かめるために、神殿の鐘も群衆の歓声も必要なかった。
扉を閉じ直すと、部屋が止まった。
暖炉の煙は上へ昇る。窓辺の蜘蛛の糸も揺れない。フローラが息を吐いた白さだけが、ゆっくり消えた。
鍋で山羊乳を温め、削ったカカオと砂糖を入れる。木匙が鍋肌を擦るたび、甘く苦い香りが濃くなる。椀へ注ぐと、湯気は真っ直ぐ立ち、風に攫われなかった。
とん、と扉を叩く音がした。
開けると、手のひらほどの風精が雪まみれで浮かんでいる。これまで隙間から勝手に入って暖炉の灰を散らしていた精だ。入口を失い、仕方なく正面から来たらしい。
『寒い。入れて』
フローラは少し考え、扉を細く開けた。
「入るなら、灰を散らさないこと。それから次もノックして」
風精は真剣に頷き、火のそばで丸くなった。部屋の空気は動かさず、自分の周りだけ小さく回して乾いていく。
境界を作ることは、誰も入れないことではない。入るかどうかを自分で決められることだ。
フローラは椀を両手で包んだ。湯気の一本も揺れない部屋で、風精と分ける甘さは、嵐を鎮めた褒美より温かかった。