演壇の裏は白紙
風花は、披露宴の席札と国際会議の登壇者カードを交互に裏返した。
どちらにも、同じ名前が印刷されている。披露宴は十月十二日。会議の基調セッションも十月十二日。研究成果を発表する機会は、推薦者が辞退したことで突然回ってきた。
瑛士は「会議へ行っていい」と言った。ただし、式を延期するなら会場費の半分は戻らない。すでに招いた友人や関係者の予定も、すべて組み直しになる。風花はその説明を一人ずつする必要がある。
会議事務局からは、登壇承諾のメール。式場からは、席次確定の催促。二件の通知が一分違いで届いていた。
会議の案内には、発表後の質疑が十五分とある。式の進行表には、二人で退場する時間が三分とあった。十五分で研究を守る自分も、三分で誰かの隣を歩く自分も、代役には渡したくなかった。
風花は仕事を選ぶ自分に酔いたくなかった。選ばれた瞬間だけは華やかでも、登壇後に次があるとは限らない。式を選ぶ自分を成熟した人とも呼びたくなかった。大切な人との約束を守ることが、必ずしも臆病ではない。
席札の裏には、瑛士が試し書きした短い言葉があった。
〈今日は来てくれてありがとう〉
登壇者カードの裏は白紙だった。そこへ自分で話す内容を書く。
鏡に映る自分の口元は、笑っても泣いてもいなかった。華やかな決断ほど、実際の顔は平らなのだと思った。
風花は会議事務局へ電話した。
「登壇を辞退します」
相手は驚き、「次の機会はお約束できません」と念を押した。
「はい。分かっています」
通話を終えると、胸の中に空席ができた。瑛士に褒めてほしいとは思わなかった。彼のために捨てた、とも思いたくなかった。
登壇者カードを破らず、手帳の十月十二日のページへ挟む。席札は式場へ返送する封筒に入れた。
瑛士へ〈式をする。会議は断った〉と送ると、〈ありがとう〉ではなく〈了解〉と返った。
風花はその短さにうなずき、席次確定のボタンを押した。空いた演壇も、自分の選んだ席の一部だった。