演技の延長料金
貸衣装店の返却受付が閉まるまで、あと十四分だった。
乃々花は試着室の鏡の前で、紺色のドレスのファスナーに手を伸ばした。背中の金具が固く、指が届かない。
カーテン越しに馨が「手伝おうか」と聞く。
「自分でできる」
「披露宴では腕組んだのに」
「あれは演技だから」
二年前、親戚の結婚式で恋人の有無を聞かれるのが嫌になり、友達の馨へ恋人役を頼んだ。翌月、馨も会社の家族会へ乃々花を連れていった。
それから招待状が届くたび、二人は互いを借りた。
手をつなぐのも、名前で呼ぶのも、写真で肩を寄せるのも、全部演技。そう決めたから壊れずに済んだ。
乃々花は途中から本当に好きになったが、どの優しさまで台本なのか分からない。それだけが、言えない理由だった。
「今日で最後だな」
馨が言う。
「何が?」
「俺の妹も、乃々花の従姉も結婚した。次の予定ないだろ」
「そうだね」
「もう恋人役、いらない?」
「演技なんだから、必要なときだけでいいでしょ」
カーテンの外が静かになった。
店員が「返却は二十分までです」と声をかける。乃々花はまだドレスを脱げない。
「馨、ファスナーお願い」
「入っていい?」
「時間ないから」
馨が背後に立ち、金具を下ろす。鏡の中で一瞬、目が合った。披露宴では平気だった距離が、台本のない試着室では近すぎる。
「俺、今日のキスも演技に入ると思ってた」
「してないでしょ」
「ブーケ取ったとき、みんなが騒いだから」
「だから逃げた」
「俺から?」
「演技でされるのが嫌だった」
馨の手が止まる。
閉店まで九分。薄いカーテン一枚の中では、冗談にして外へ出ることもできなかった。
「じゃあ、本気なら?」
「そういう聞き方、ずるい」
「乃々花がずっと演技って言うから、俺も本気の出し方が分からない」
「私だって分からない」
「今日で役を降りる?」
「降りたら、会う理由なくなる」
「それが嫌?」
乃々花は鏡の中の自分を見た。借り物のドレス、借り物の肩書き。気持ちまで借り物にしておけば、返却期限が来ても傷つかないと思っていた。
「演技だから続けたいんじゃない」
乃々花は言った。
「演技が終わっても、馨と会いたい」
ファスナーが最後まで下りた。馨はカーテンの外へ出る。
二人は衣装を返却し、恋人役の共有予定表から今後の仮予約をすべて削除した。
店を出たところで、乃々花は今日撮った写真を一枚だけ選び、スマートフォンの待受にはせず、馨との個別トークへ送る。
続けて〈次は誰にも見せない夕飯〉と書き、閉店後の街で二人分の席を予約した。