潮目が変わる朝
泊木佐和が港へ降りると、夫の瀬尾悟郎は観光案内所の女と船の前に立っていた。
悟郎は漁師仲間の前で言った。
「佐和とは別れる。これから船の経理と客商売は彼女に任せる」
女は新品の長靴を履き、船名の前で写真を撮っている。
佐和は魚箱へ手を置いた。
「その船、誰のものか覚えてる?」
「夫婦で使ってきたんだ。現場を仕切ってるのは俺だ」
「父から私が相続した船だよ」
悟郎は鼻で笑った。
「船があっても、お前一人じゃ沖へ出られない。乗組員は全員俺についてくる」
船頭の老人が名簿を持ってきた。
「今朝、組合で確認した。船主は佐和さん。漁獲枠も、泊木家から佐和さんへ承継されている」
悟郎の顔が険しくなる。
「俺を外すつもりか」
佐和は首を振った。
「外したのは私じゃない」
佐和は父の死後に小型船舶の上位免許を取り、荒天時の操船講習も終えていた。悟郎が「女は帳簿だけ見ていろ」と笑う間も、夜明け前の出港準備と市場との交渉を欠かしたことはない。その積み重ねを、港の誰もが見ていた。
若い乗組員が前へ出た。
「悟郎さん、この三か月、夜の遊びで朝便に五回遅れました。佐和さんが代わりに操船して、取引先にも頭を下げた。俺たちは佐和さんの船に乗ります」
女が悟郎を見る。
「船長になるって言ったよね」
「実質、俺が船長だ」
「実質じゃ、観光ツアーの契約はできない」
彼女はスマートフォンをしまい、長靴の泥を気にしながら離れていった。
悟郎は船へ乗り込もうとした。船頭の老人が渡り板の前へ立つ。
「今朝の便は、乗組員名簿にない者を乗せられん」
「俺は二十年ここで働いたんだぞ」
佐和は操舵室へ上がった。父に教わった手順で機関を始動させる。低い振動が船体を満たした。
組合長が新しい運航届を掲げる。
船長欄には、泊木佐和。
乗組員たちは悟郎を見ず、綱を解いた。
岸壁と船の隙間がゆっくり広がる。悟郎が何か叫んだが、エンジン音に消えた。
防波堤の外で朝日が海を割り、新しい船長名を記した旗が風を受けた。