火傷薬より焼き林檎
マルタの工房では、炉の余熱が火傷薬を作る。
隣の鍛冶場が閉まる夕方、壁を伝った熱が銅釜を温める。釜には朝のうちに月葵油と冷石粉が自動で入り、適温になるまで混ざらない。熱すぎれば待ち、冷えれば止まる。完成した軟膏は鍛冶組合の救急箱へ送られ、一本ごとの使用料が工房へ届く。
マルタは炉前に立たない。
製鉄所の救護室にいた頃、赤茶の制服は火の粉で穴だらけだった。爆ぜた鉄、潰れた指、熱中症。警報が鳴れば食事中でも走り、休憩札はいつも裏返された。退職後も警報端末には『第一炉事故』『救護要員集合』が未読で残っていた。
夕暮れ、銅釜の蓋がことんと鳴る。
《軟膏十二本補充。組合契約料を入金しました》
マルタはその一部で林檎を六つ買ってきた。薬代より安い。以前は林檎を焼く時間さえ贅沢だった。
一つ目を炉へ入れたとき、警報端末が赤く点滅した。
『第二工場で小爆発。重傷者はいないが救護室が混乱している。経験者として戻れ』
元工場長の声だった。
「軟膏は届いています。救護手順も壁に残しました」
『現場は紙どおりに動かん』
「だから常勤の救護員を増やすよう、何度も頼みました」
『今だけだ』
マルタは、火傷薬の匂いではなく、林檎の甘い香りを吸い込んだ。
「私の今は、そちらの穴埋めではありません。戻りません」
端末の警報音を切る。銅釜は黙って次の軟膏を練り、鍛冶場へ送った。
製鉄所を辞めてからも、焦げる匂いがするとマルタの手は救護鞄を探した。鍋の縁でさえ事故現場に見え、火を使う料理を避けていた。自動釜が安定して動き始めた日、彼女は小さな炉で初めて林檎を焼いた。甘い匂いが工房へ広がっても、警報は鳴らなかった。火は人を傷つけるだけではなく、夕食を温めることもできる。その記憶を取り戻すため、売上が入るたび一つ新しい焼き菓子を試している。
やがて林檎の皮が小さく弾けた。マルタは皿へ載せ、木匙で湯気の立つ果肉をすくった。今夜は誰かの火傷ではなく、自分の舌を火傷しないよう、ゆっくり冷まして食べた。