灯りを消してから磨く
「灯りを消してから磨くんだよ」
山神社の灯籠洗いをする朔は、巫女見習いの小春へそう教えた。
火をつけたまま布を入れれば、油が跳ねる。真鍮の縁を外し、煤をぬるま湯で浮かせ、乾いた和紙で光るまで拭く。祭礼前夜だというのに、朔の仕事は地味で、剣舞の稽古をする若者たちは彼を「雑役」と呼んだ。
小春は最後の百八基目を運んできた。
「これで全部です」
「灯りの数は足りている。影の数が一つ多いね」
境内に並ぶ灯籠の影。その間に、角のある影が立っていた。
灯りが揺れ、影から赤鬼が抜け出す。祭りの人混みを喰うため、百年かけて灯籠の煤に潜んでいた《影呑み》だ。社殿へ続く石段を、一歩で半分上る。
小春は神鈴を鳴らそうとした。音が出ない。鬼が影まで掴んでいる。
朔は手にしていた竹の灯籠竿を構えた。
「だから、先に消す」
彼が息を吹くと、境内の灯が一斉に消えた。
闇の中で、鈴が一度だけ鳴った。
次に火が戻ったとき、赤鬼はいなかった。石段には角が一本落ち、黒い影だけが細い帯になって朔の竿へ巻きついている。彼が竿を払うと、影は煤となって洗い桶へ落ちた。
小春には見えた。闇が満ちた一瞬、朔の竿が月光より細い刃へ変わり、鬼の本体である影だけを斬った。《無灯》。光を消すことで世界中の影を一枚にし、標的だけを切り離す剣聖の秘剣だった。
朔は角を砕いて灰壺へ入れ、石段の焦げを藁たわしで洗った。百八基の灯籠から煤を回収し、油の量を揃え、倒れた紙垂を結び直す。祭りの準備は一刻も遅れない。
「朔さんが、奉納絵に描かれた剣聖なんですね」
「絵の男は、もう少し髪が多い」
社務所から宮司が顔を出し、準備の具合を尋ねた。小春が答えに迷うより早く、朔は『煤が少し多かっただけです』と洗い桶を示す。黒い水の底に沈む鬼の影は、もうただの汚れにしか見えない。
明日の参拝客は、百八の灯りが一つも欠けず輝くことだけを喜ぶだろう。そのほうがいい、と小春にも分かった。
小春が吹き出すと、境内はようやく祭り前の静けさに戻った。
朔は最後の灯籠を手元へ寄せ、火を落とす。布を差し入れながら、冒頭と同じ言葉を言った。
「灯りを消してから磨くんだよ」