煤のない鍋蓋
カスル砦の大鍋は、六日間火にかかっていなかった。
炊事頭のマルタ・ハディムは、煤のない鉄蓋を三枚、軍議の卓へ並べた。
兵糧帳では小麦が四十袋残っている。だが倉庫は空だ。兵は鍋を覗くたび、底の錆を焦げ飯と見間違えた。誰かが夜ごと敵へ売った。
容疑者は三人。倉庫鍵を持つ副官、礼拝堂の地下道を知る司祭、荷車を動かせる厩長。
「今夜、敵は北門を買いに来る」
守将オドランが言った。
「内通者を斬っても、麦は戻らぬ」
「戻ります」
マルタは一枚目の蓋へ白い灰、二枚目へ油、三枚目へ何も塗らなかった。どれも同じ鍛冶場で作られた蓋だが、月明かりなら違いははっきり見える。
三人を別々に呼び、敵へ渡す偽の返事を見せる。
副官には『灰の蓋を北窓へ』。
司祭には『油の蓋を北窓へ』。
厩長には『何も塗らぬ蓋を北窓へ』。
どの蓋が合図だと敵へ伝わるかで、内通者が分かる。
夜半前、敵陣から矢文が飛んできた。
『油の蓋を掲げれば、銀と麦を礼拝堂へ返す』
司祭だった。
オドランが剣を抜く。
「捕らえる」
「まだです。返す、と書いてある」
「どういう意味だ」
「売った麦は、敵陣ではなく礼拝堂の地下にある。包囲が終わった後、自分の財産にするつもりだった」
司祭は城を売ったのではない。もっと安く、人の空腹だけを売ったのだ。飢えさせて降伏させ、隠した麦を戦後に売る腹だった。
マルタは油の蓋を北窓へ掲げた。
ほどなく司祭が礼拝堂へ忍び込む。オドランと兵が後を追い、祭壇下の石板を開けた。
地下には三十七袋。三袋はすでに敵への手付として渡されていた。
司祭は祈る暇もなく斬られた。
「三十七袋で何日だ」
「二日」
「兵糧帳では四十だ」
「帳簿は腹へ入りません」
マルタは小麦を鍋へ入れた。粒が鉄へ落ちる音に、広場の兵が一斉に振り向いた。火を焚くと、六日ぶりの煙が立つ。
敵は油の蓋を降伏の合図だと思い、北門前へ集まり始めた。
オドランは湯も沸かぬうちに兵へ匙一杯ずつ生麦を配った。
マルタが煤のついた蓋を鍋へ戻す。
北門上に、反撃の鉄旗が上がった。