片道の申込書
皐月の母から電話が来たのは、語学学校の申込期限まで四十分のときだった。
「三か月も外国へ行くって、本気なの? 二十九にもなって、今さら学生?」
机には二枚の予定表があった。今の町で続ける夜間講座の年間予定と、海辺の小都市にある語学学校の三か月コース。前者なら暮らしは変わらない。後者は貯金の半分が消え、帰国後の部屋も決まっていない。
皐月は何かを始めるたび、「もう少し若ければ」と考えるようになっていた。二十三なら冒険、二十九なら迷走。同じ行動でも、年齢が説明を変える。
母は、帰ってきて何になるの、と聞いた。
何にもならないかもしれない。語学が劇的に上達せず、友人もできず、三か月を消費するだけかもしれない。その可能性を口にすると、母は「なら行く意味ないじゃない」と言った。
「意味がなかったって、自分で分かりに行く」
電話の向こうでため息が落ちた。
申込画面には二つの航空券を選ぶ欄があった。日付固定の往復券と、帰国日を後から決める変更可能券。後者は高い。皐月は迷った末、日付固定の往復券を選んだ。逃げ続けるためではなく、三か月で戻る約束を自分に置くためだった。
母との電話を切ると、締切まで十二分。皐月は申込書の「渡航目的」に、資格取得でも将来準備でもなく、「暮らしてみるため」と書いた。
送信後、キャンセル料の案内が表示された。明日になれば怖くなって取り消したくなるだろう。
皐月は画面を閉じた。正しい時期を選べなかったとしても、遅いと感じながら出発する三か月を、自分の年齢のせいにはしないと決めた。
出発の日、皐月のスマートフォンには二件のメッセージが届いた。母からは「体に気をつけて」、学校からは「到着後の住所」。空港の案内板には往路と復路の日付が並び、帰る日まで決まっていることが急に窮屈に見えた。変更可能券にすればよかった、と初めて後悔した。それでも窓口へは向かわず、固定された復路の券を財布へしまった。自由ではなく期限を選んだ三か月を、途中で別の物語に言い換えず、搭乗口を通った。