片道切符を買わない

村瀬弓佳は、父が送ってきた片道航空券を印刷した。

行き先はシンガポール。父の会社の海外支社で働くための便で、出発日は三週間後。弓佳は応募も面接もしていない。

印刷した紙を持って、父と駅前の蕎麦屋で向かい合った。

「現地責任者には話が通ってる。今の小さな会社より、ずっと経験になる」

父は蕎麦をすすりながら言った。

弓佳は地域のNPOで、外国人家庭の生活相談をしている。父は語学力を「もっと大きな舞台で使え」と言い続け、仕事の規模を年収と国の数で測った。

「行かないよ」

「怖いだけだろう」

「行きたくないの」

「同じ意味だ」

父は昔から、弓佳の拒否を能力不足へ翻訳した。高校で演劇部を選ばなかったのも、人前が怖いから。地元の大学へ進んだのも、外で通用しないから。弓佳が望まないという答えだけは、理由として認めなかった。

父の会社から届いた案内には、弓佳の語学資格と職歴が正確に記されていた。父がどこまで話したのかは尋ねなかった。答えを聞けば、その説明まで引き受けさせられる気がした。

弓佳は航空券を四つに折った。

「会社へ、私の個人情報を渡したことも取り消して」

「もう席まで取ったんだぞ」

「キャンセル料は払う。でも、行かない理由の説明はこれ以上しない」

父の顔が険しくなった。

「親の顔を潰す気か」

「私の名前で作った約束を断るのは、私の顔を戻すため」

弓佳は封筒に現金を入れ、キャンセル料と書いて父へ渡した。父は受け取らなかった。

「そんなものが欲しいんじゃない」

「じゃあ会社へ返して。今後、私の履歴書や連絡先を誰にも渡さないで」

蕎麦が伸びていく。父は箸を置き、航空券の紙を見た。

「お前の仕事は、そんなに大事か」

弓佳は一瞬考えた。

「大事。でも、大事じゃなくても、選ぶのは私」

父は初めて言葉を失った。

店を出るとき、現金の封筒は父が持っていた。航空券の紙は弓佳が自分で破り、駅のごみ箱へ捨てた。

帰りの電車では、往復券を買った。どこかへ行くためではなく、今日の食事から自分の家へ戻るための切符だった。