牡蠣土手鍋のふち

店主が味噌壺の蓋を閉めたとき、閉店間際の客が大きな旅行鞄を引いてきた。車輪が入口の段差に当たり、鈍い音を立てる。

「鍋は、もう無理ですよね」

「一人前の土手鍋なら、材料が残ってる」

客は鞄を壁際へ置き、深く息を吐いた。

小鍋の縁に味噌が塗られ、中央へ牡蠣と豆腐が並べられた。火が入ると出汁がぐつぐつ鳴り、味噌の土手が少しずつ溶ける。牡蠣の潮の匂いと、焦げかけた味噌の甘い香りが白い湯気に混じった。

客は明日の朝、故郷へ戻る。祖母が一人で暮らせなくなり、家族の中で在宅勤務ができるのが自分だけだった。会社には「一週間だけ」と伝えているが、一週間で終わる見込みはない。上司からは、長期なら今の担当を外すと言われた。

旅行鞄には着替えより、仕事用の機材が多く入っている。それでも本当に両立できるか分からず、駅で何度も切符を変更しようとした。改札前のベンチで祖母から届いた短い音声を再生したが、雑音の向こうの声へ返事はできなかった。切符の時刻だけが近づいていた。

味噌の縁が崩れ、出汁が濃くなる。客が箸で土手を直そうとすると、店主が言った。

「土手は崩すためにある」

客は手を止めた。

牡蠣は熱で丸く縮み、噛むと濃い汁が出た。味噌の甘さのあとに、海の塩気が残る。最初は薄かった出汁が、食べ進むほど深くなっていった。

客は会社のメールを開いた。明日の午後、上司との面談を入れる。希望欄へ、《一か月の在宅勤務を試し、週ごとに成果を確認したい》と書いた。担当を守らせてほしい、とは書かなかった。難しければ仕事の組み方を変える相談もしたいと続けた。

祖母の状態は変わらない。会社が認める保証もない。故郷で自分がどこまで役に立つかも分からない。それでも、一週間という細い土手だけで、両側の水を永遠に分けるふりはやめることにした。

店主が火を止めても、鍋はしばらく小さく鳴っていた。最後の牡蠣を噛むと、味噌と潮の熱い汁が広がり、冷えた身体の内側へゆっくり沈んだ。