猫のいない内見

退去前の空き部屋を見に来る人は、結局現れなかった。

三人はリビングで、猫用の皿を囲んでいた。二階堂杏が保護した灰色の猫は、二週間前から帰ってこない。首輪も付けず、名前も三人で決められないまま、〈ねこ〉と呼んでいた。

「新しい人、猫可の家だって聞いてたのに」

杏が言う。

「契約自体なくなったんでしょ。建物売るって」

船戸響子は空の窓辺を見る。

猪熊朝陽は皿へ少しだけ水を入れた。

杏はペット可のアパートへ移り、動物看護の専門学校へ通う。響子はシンガポールの会社に就職する。朝陽は父親の工場を手伝うため、実家へ戻る。三人とも、猫を連れていける未来を一度は考えた。

「杏のところなら飼える」

朝陽が言う。

「帰ってきたらね」

「探し方が足りないんじゃない」

響子の言葉に、杏が振り向く。

「海外行く人に言われたくない」

「私だって探した」

「送別会の途中まででしょ」

「内定断って残れって?」

朝陽が皿を持ち上げた。

「喧嘩する相手、猫じゃないだろ」

三人は黙った。猫が消えたのは、退去日を決めた翌日だった。段ボールが増え、家具が減り、玄関が長く開いた。家の変化を一番早く察したのは、人間ではなかった。

「名前、付けとけばよかった」

朝陽が言う。

「名前があったら帰るの?」

響子が聞く。

「呼べた」

杏は小さく答えた。

それぞれの進路も、猫と似ていた。杏は会社員を辞めて学び直す。響子は恋人と別れて海を渡る。朝陽は「継がない」と言い続けた工場へ戻る。誰も、最初に呼ばれていた名前のままでは次の場所へ行けない。

夕方まで待ったが、窓辺に灰色の影は現れなかった。杏は皿を持っていくと言い、響子は首を振った。

「ここに置こう。戻ったとき、家がなくても目印になる」

「取り壊されたら?」

「それまでに戻るかもしれない」

三人は水と餌を少しだけ残し、玄関を閉めた。

鍵を返したあと、リビングには猫のいない皿と、爪で裂けた椅子が一脚残った。人間の席は全部空いたのに、その椅子だけが、まだ誰かに使われているように窓を向いていた。