猫の名前は保留
人事部の郡司由良は、毎日何かを決めていた。
採用候補者を次へ進めるか。研修日をいつにするか。異動希望をどう扱うか。どの選択にも誰かの生活がぶら下がっている気がして、帰宅後まで頭の中で比較表を作った。
猫が玄関へ入ってきたのは、宅配便を受け取った隙だった。
小柄な三毛猫で、廊下から由良の足元を抜け、ソファの下へ直行した。
「採用した覚えはありません」
覗き込むと、猫は奥でくしゃみをした。
首輪もなく、近所の飼い主も見つからない。保護団体へ届ける際、仮の名前が必要になった。
由良は候補を書き出した。
毛色から「三色」。拾った日から「七日」。目の色から「琥珀」。呼びやすさ、聞き間違いにくさ、病院で恥ずかしくないか。表は二頁になった。
決められないまま、名前欄へ「保留」と書いた。
「保留、ごはん」
呼ぶと猫が来た。
「保留、そこは駄目」
ちゃんと降りた。
仮の名なのに、三日で本人が覚えてしまった。
保留は、由良が迷っていると邪魔をした。
夕飯を作るか買うか悩めば、冷蔵庫の前へ座る。風呂を先にするかメールを返すか考えれば、脱衣所へ歩く。休日に仕事を開こうとすれば、鞄の上で眠る。
どれも正解ではない。ただ、一つが先に決まるだけだった。
ある夜、由良は異動面談の記録を持ち帰り、何度も読み返していた。
社員本人の希望と、部署の都合が合わない。自分が最善の案を出さなければと思うほど、何も書けなくなる。
保留が紙の上へ座った。
「これは本当に大事なの」
抱き上げると、猫の腹が小さく鳴った。
由良は時計を見た。十時半。自分も夕飯を食べていない。
「では、本件は明日まで保留」
口に出すと、胸の奥に少し隙間ができた。
卵雑炊を作り、保留には餌を出した。出汁と刻み葱の匂いが部屋へ広がる。温かいものを食べてから記録を見直すと、「本人へもう一度尋ねる」という選択肢が見えた。決める前に、聞けばよかったのだ。
一か月後、猫を正式に迎える書類にも名前を書く欄があった。
由良は候補表を開き、少し考え、そのまま「保留」と記した。
未決定ではない。これが名前だ。
保留は膝の上で丸くなった。由良は明日の予定表を閉じ、猫の温度へ手を置く。
決めなくてよいこと、明日決めればよいこと、誰かと決めること。湯気の残る部屋で、それらはようやく別々のものになった。