猫レコード店のB面

 雨谷風花は、通勤中に音楽を聴かなくなった。

 以前は新しい曲を探すのが好きだったのに、最近はイヤホンを入れるだけで疲れる。仕事の通知、駅の放送、人の会話。音が一日じゅう押し寄せ、好きだった歌までその列へ加わる気がした。

 休日、路地裏の「B面レコード」へ入った。

 店主は黒猫の針音。人間の店員がレコードを磨き、針音は試聴機の横で尾を揺らす。

「何かお探しですか」

「音楽ではない音を」

「それは、うちの得意分野です」

 針音が棚から出したのは、古い環境音のレコードだった。

 雨、やかん、遠い電車、頁をめくる音。

「これを買う人が?」

「音楽に戻る途中の人が」

「私は戻りたいのかな」

「戻らなくても、B面はあります」

 試聴室で針を落とす。

 最初に細かな雑音があり、やがて雨樋を流れる水の音が聞こえた。途中で誰かがやかんの蓋を持ち上げ、湯をカップへ注ぐ。曲ではない。けれど風花の肩は少し下がった。

 針音はスピーカーの前へ座り、耳だけ動かしている。

「猫は音楽が好き?」

「低い音は好きです。大きな拍手は嫌い」

「分かります」

「では、同じ客層ですね」

 人間の店員が珈琲を一杯持ってきた。レコードに合わせたサービスで、豆は浅く焙煎してある。

 雨の音と、実際の湯気。風花はカップへ口をつけ、ふと鼻歌を一音だけこぼした。

 自分でも驚いて止める。

「今、歌いましたね」

 針音が言う。

「歌ではなく、音です」

「音楽も最初は一音です」

 風花はレコードを買った。

 家で再生すると、狭い部屋へ知らない家の雨音が広がる。終わり近く、遠くで誰かが笑う声が入っていた。風花はそこへ小さく和音を重ねた。

 上手に歌う必要も、最後まで続ける必要もなかった。

 一か月後、B面レコードへ戻る。

「次は少しだけ旋律のあるものを」

 針音は目を細め、ピアノが二音ずつ鳴る盤を選んだ。

「進みました?」

「B面を歩いています」

「よい道です」

 店を出ると、夕立のあとだった。濡れたアスファルトと珈琲豆の匂いが混じる。

 風花はイヤホンを入れず、町の音をそのまま聞いた。自転車のベル、軒から落ちる水、パン屋の扉。どれも急かさず、曲になる手前の温度で、静かに彼女の隣を歩いていた。