玄関の小さな椅子
夕絃は六歳の誕生日に、小さな木の椅子をもらった。食卓には低すぎ、机には高すぎたので、玄関に置かれた。そこへ座ると、母の亜蘭が帰ってくる靴音を、誰より早く聞ける。
亜蘭は花屋で働いている。春の彼岸前は帰りが遅い。夕絃は祖母と夕飯を済ませ、歯も磨いたのに、椅子から動かなかった。膝に毛布を掛け、絵本を一冊持った。
玄関は冷える。扉の隙間から土と夜の匂いがする。祖母が温めた牛乳を持ってきて、待っていると長くなるよ、と言った。夕絃は「待ってない。ここで読んでる」と答えた。絵本は最初の頁から進んでいない。
九時近く、外で自転車のスタンドが鳴った。夕絃は立ち上がりかけ、待っていなかった顔をするため、慌てて座り直した。
亜蘭が扉を開ける。冷たい空気と一緒に、葉と水と、甘い花の匂いが入り込んだ。腕には売り物にならない短いチューリップが三本あった。
「まだ起きてたの」
「本を読んでた」
「玄関で?」
夕絃は牛乳を一口飲んだ。もうぬるかった。亜蘭は上着を脱ぎ、冷えた手で娘の髪を撫でる。花屋の冷蔵庫のような手だった。
三本のチューリップは空き瓶に挿され、翌朝、食卓で少し開いた。玄関の椅子には毛布が畳まれている。夕絃は牛乳の膜と花の匂いを思い出しながら、今夜は待たない、と毎朝のように決めた。
亜蘭は帰宅後、短い茎を水の中でもう一度切った。夕絃は眠そうな目で、その手元を見た。切り口から小さな泡が上がり、花が水を飲むのだと教わる。人を待つ椅子のそばで、今度は花が朝を待っていた。亜蘭が娘を抱き上げると、冷えた作業着の内側は意外に温かい。夕絃は首元へ顔を埋め、土と葉の匂いを吸いながら、絵本の続きより先に眠った。
祖母が空のカップを下げ、小さな椅子を壁へ戻した。座面には夕絃の体温が、丸いかたちのまま残っていた。
瓶の水は夜のあいだに室温へ馴染み、花びらの奥には、まだ店の冷気が一筋だけ眠っていた。