白手袋で合図しない
満員の音楽ホールで、白い演出手袋が穂村響へ渡された。
「本番は止められない。合図を出せ」
舞台監督の声も、中央マイクの根元に貼られた星形シールも、前の人生と同じだった。
響が白手袋を上げた瞬間、歌姫が中央へ進んだ。直後、天井の照明バーを支えるシャックルが破断し、彼女と児童合唱団の上へ落下した。
事故後、舞台監督は響が吊り位置を誤ったと証言した。歌姫の最後の公演映像は事故の瞬間ばかり切り抜かれ、児童たちの歌声は二度と続きを持たなかった。だが本当は、監督が予備シャックルを別公演へ横流しし、亀裂のある部品を黒く塗って再使用していた。
二度目の開演三秒前。
響は白手袋を上げず、両腕を胸の前で交差した。全停止の合図だ。たった三秒を守るために、二度目の人生をすべて賭けた。
音楽が消え、客席がざわめく。
「何をしている!」
「照明バーを下ろします。歌手も合唱団も中央から退避」
舞台監督がインカム越しに怒鳴る。
「異常はない。今止めたら損害が――」
響は中央マイクをつかみ、客席へ向けて言った。
「三十秒だけ、命を優先します」
歌姫は前の人生と同じ星形シールを見下ろした後、響の目を見て舞台端へ移動した。児童たちも続く。
響は手動降下レバーを引く。照明バーがゆっくり下がり始めた。
頭上五メートルまで来た時、黒く塗られたシャックルが甲高く弾ける。バーは片側へ傾いたが、響が先に張った補助ワイヤへ引っかかり、無人の中央舞台から一メートル上で止まった。
星形シールが風圧で剥がれる。
客席の誰も怪我をしていない。
響は割れた部品を拾い、塗装を白手袋で拭った。亀裂の内側から、横流し先の管理刻印が現れる。大型スクリーンがその映像を映し、舞台監督は言葉を失った。
開演予定時刻。前の人生では救急要請が流れた館内放送が鳴る。
《安全措置完了。負傷者ゼロ。公演は機材変更後に再開します》
歌姫が中央ではなく舞台端のマイクへ立った。
「最初の歌は、私たちを止めてくれた人へ」
前の人生では最後まで呼ばれなかった響の名が、満員の客席に初めて響いた。