祖母の冷蔵庫
祖母の八重香の冷蔵庫には、何でも名前が書いてある。
〈味噌〉〈麦茶〉〈昨日の煮物〉。透明な容器にも、白いテープが貼られている。
孫の眞白は、物忘れが増えたからだと思っていた。
夏休み、冷蔵庫の整理を手伝った。奥から〈いつか使う柚子〉と書かれた冷凍袋が出てくる。
「いつの?」
「去年かな」
中の皮は乾き、霜がついていた。それでも湯へ浮かべると、かすかに香った。
棚を拭き、新しい容器へ日付を書く。八重香は字が震えるので、眞白が代わった。
「名前だけでいいの?」
「誰が作ったかも」
祖母は煮物のテープへ〈八重香〉と書かせた。
「自分の冷蔵庫なのに」
「もらったものと分からなくなるから」
よく見ると、〈隣の牧子さん〉〈息子〉〈眞白〉と、作り手の名が残っている。冷蔵庫は食べ物だけでなく、誰から来たかを覚える場所だった。
眞白は麦茶を作り、容器へ〈眞白・今日〉と貼った。
数日後、祖母から電話が来た。
「あなたの麦茶、もうなくなった」
「また作るよ」
秋、柚子の実が届いた。二人で皮を薄く剥き、新しい袋へ入れる。
テープには〈八重香と眞白・今年〉と書いた。
冷凍庫を開けるたび白い冷気が出て、黄色い皮の香りが鼻へ触れた。日付より先に、二人で剥いた午後の温度を思い出せた。
眞白は自宅の冷蔵庫にも名前を書くようになった。〈八重香にもらった柚子味噌〉〈友人と作った餃子〉。同居人には少し笑われたが、食べるとき誰の顔を思い出すかが分かる。祖母の家では、古いテープを剥がさず上へ重ねるため、容器の蓋が文字で厚くなった。冬、二人で冷凍の柚子皮を湯へ浮かべる。白い霜が溶け、黄色が鮮やかになる。冷蔵庫の冷気の奥から、夏に麦茶を作った午後まで香りと一緒に戻ってきた。
新しい袋の隣には、去年の〈いつか使う柚子〉を一片だけ残した。新旧を湯へ浮かべると香りの強さが違う。八重香はどちらも飲み、古いほうが去年の味だと言った。