空欄の離婚届

笠松家の食卓に、空欄の離婚届が置かれた。

義母の幾江がペンを持ち、義父の公彦が玄関の鍵を隠す。夫の理人は母の後ろに立っていた。

「署名だけしなさい」

「財産分与と慰謝料は放棄するって、別紙にも書いて」

「母さんに逆らい続けるなら、家族ではいられないよ」

紗綾が拒むと、三人は暖房を切り、スマートフォンを取り上げた。深夜まで同じ言葉を繰り返す。紗綾は震える手で署名した。

翌朝、幾江は離婚届を封筒へ入れた。

「これで理人の財産は守れるわ」

だが市役所の窓口で、届出は受理されなかった。紗綾は数日前、離婚届不受理申出を提出していた。

三人が帰宅すると、紗綾は弁護士と待っていた。

理人が怒鳴る。

「最初から罠だったのか!」

「相談する時間が必要だっただけ」

紗綾の腕時計には、昨夜の会話がすべて録音されていた。公彦が鍵を隠す音、幾江が「朝まで出さない」と言う声、理人が「署名すればスマホを返す」と迫る声。食卓の見守りカメラには、三人が交代で紗綾を囲む姿も残っている。

さらに、理人が離婚に備えて預金一千七百万円を幾江へ移した記録が示された。送金メモには《紗綾対策》と書かれていた。

弁護士が通知書を読み上げる。

「強要、監禁に当たる行為、財産放棄の強制、長期のモラルハラスメントについて、慰謝料一千二百万円。隠匿財産の返還と財産分与、治療費を含め、請求総額三千五百万円です」

幾江は離婚届の控えを破った。

「紙がなければ証拠もないでしょう!」

弁護士は控えを一部ずつ三人へ渡した。

「原本は市役所が保全し、録音とともに警察へ提出済みです」

公彦が裏口へ向かったが、門前には捜査員と裁判所の執行官がいた。

理人の携帯に、母へ移した預金と自宅持分への仮差押通知が届く。

幾江は息子へ叫んだ。

「理人、母さんを守りなさい!」

理人が開いた銀行画面には、守れる残高が一円も表示されなかった。