箱書きのない客

黒檀森惟弦は、色の褪せた麻の上着で古美術店へ入った。

抱えているのは、箱書きも鑑定書もない小さな桐箱。店長の塩屋崎英彦は蓋を開ける前に言った。

「遺品整理でしたら、郊外の買い取り店へ。こちらは由緒の確かな品だけです」

「中を見てもらえますか」

「証明書のない木箱に、鑑定料をかける価値はありません」

新人店員だけが、箱紐の結び方と古い封蝋へ目を留めた。

「創業者の保管印に似ています」

塩屋崎は笑った。

「博物館ごっこはやめなさい」

惟弦は箱を持ち帰り、新人の名前を覚えた。

三日後、店を傘下に持つ国際オークション会社の買収完了式が開かれた。新会長が、店舗の真贋管理を直接監督するという。

新会長は惟弦だった。

黒檀森家は美術品輸送、修復、競売会社を所有する創業家。惟弦は会長であり、古文書の鑑定士でもある。桐箱は、店の創業者から財団へ託された非公開資料で、封蝋を傷つけず扱える人材を探すため持ち込んだものだった。鑑定書を先に見せなかったのは、紙の権威ではなく、素材と手仕事から来歴を読む人を見つけるためでもあった。惟弦は、封を開けない判断にも根拠が必要だと考えていた。

塩屋崎は額に汗を浮かべた。

「来歴が不明な品を安易に開けない、正しい判断です」

「あなたは開けない理由を調べず、服と証明書だけを見ました」

監査担当が売買資料を映した。塩屋崎は立派な箱書きがある品を無条件で本物とし、偽造品を二件販売。一方、箱のない地域資料を安値で買い取り、自分名義で再評価していた。

新人店員は封蝋と保管印の年代を正しく説明した。惟弦は彼女を財団の鑑定研修へスカウトし、学費を支援すると告げた。

塩屋崎の鑑定権限が停止され、店舗の営業許可も再審査へ入る。

惟弦が専門家立会いで桐箱を開ける。中には、店の創業証書と初代所有者名簿が収められていた。最上段には黒檀森家の名がある。

創業証書が店頭へ掲げられ、新人の研修採用が決まった瞬間、箱書きのない客を追い返した塩屋崎だけが、この店との来歴を失った。