結ばない靴紐
里見由良が一日だけ家へ戻った時、父の運動靴は玄関に脱ぎっぱなしだった。
灰色の紐がほどけ、片方は靴底の下へ入り込んでいる。父は最近、指の震えが強くなり、結び直すのに時間がかかる。それでも毎朝、近所の公園まで歩く。由良が入院してからは散歩を休んでいると母が言った。靴紐が理由ではないだろうが、理由の一つは減らせる。
由良の用事は、普通の紐を伸びる靴紐へ替えることだった。
駅前の靴店で、黒、白、灰色の三色を見比べた。店員は、結ばず留め具で固定する型を勧めた。父は新しい仕組みを嫌う。けれど蝶結びを作らず、足を入れるだけなら使うかもしれない。由良は靴と同じ灰色を選んだ。
帰宅すると父は昼寝をしていた。起こさず、玄関の床へ座る。古い紐を穴から抜くと、先端の硬い部分が一本だけ割れていた。父が何度も結び直した跡で、中央だけ細くなっている。
新しい紐を下から通す。左右の長さをそろえ、一段ずつ交差させる。指先に力が入らず、穴へ通すたび紐を落とした。母が手伝おうとしたが、由良は「留め具だけ持って」と頼んだ。一人で全部することより、左右を同じ長さにすることのほうが大事だった。
最後の穴まで通し、父の足の大きさを思い出して少し緩める。入院前、由良はよく「靴が大きすぎる」と言った。父は厚い靴下を履くからこれでいい、と聞かなかった。
留め具へ二本を通し、余った先を切る。切りすぎれば戻せない。由良は三センチ残し、鋏を入れた。先端へ小さな金具を被せ、ペンチで閉じる。
父が起きてきて、玄関の段へ座った。説明せず靴を差し出すと、父は片足を入れた。紐は伸びて甲を通し、留め具が中央へ戻った。
「結ばないのか」
「結ばなくていいやつ」
父はもう片方も履いた。立ち上がり、玄関の上がり框を一歩またいでから戻り、踵を床へ二度当てる。由良は左右の締まりを見て、右だけ留め具を一センチ下げた。
灰色の金具を指で押して離すと、二本の紐が同じ長さで止まった。