給食室の大鍋
「おかわりは一人一杯までです」
冒険者学校の給食主任オレナ・バスクは、昼になると大鍋の前で同じ言葉を繰り返した。元冒険者だという噂はあったが、今の武器は長柄の杓子だけ。豆を煮て、パンを数え、食物アレルギーの名札を間違えないことに全力を注ぐ女性だった。
仕込みを手伝う見習いのポポは、夕方、空の鍋から腹の鳴る音を聞いた。
鍋底が裂け、巨大な口が現れる。飢界侯モルド。食べた町の名まで消化する魔族で、勇者一行が最後まで倒せず異空間へ追放した災厄だった。
『腹が減った。まずはこの学院を喰う』
黒い舌が給食室いっぱいに伸びる。
オレナは杓子を鍋の縁へ一度当てた。
「順番を守りなさい」
澄んだ音が鳴った。
飢界侯の口が豆粒ほどに縮み、鍋の底へ落ちた。オレナが杓子で一回かき混ぜると、怪物は自分の飢えに飲み込まれ、黒い泡一つになって消える。魔王軍百万の兵糧を一匙で空にした元勇者の《満腹律》。力の余波さえ、煮込みの湯気に紛れた。
ポポだけが棚の隙間から見ていた。
ポポは、オレナが怪物を珍味にも魔法食材にも変えなかったことに気づいた。英雄譚なら、倒した魔物で豪華な料理を作る場面になるだろう。だが安全を確かめられないものは、一滴でも生徒へ出さない。それが彼女の勝利だった。世界を救う杓子は、明日の昼にはまた、豆と塩を同じ分だけ皿へ配る。その公平さまで含めて伝説なのだ。
オレナは黒い泡を丁寧にすくい、封印瓶へ入れた。鍋を三度すすぎ、床に落ちた粘液へ塩を振って拭き取る。裂けた鍋底は指で撫でるだけで元に戻り、豆のスープを新しく仕込み直した。
「主任、あれ、伝説の飢界侯ですよね」
「異物混入です。報告書にはそう書きます」
「主任が《銀杓子の勇者》なの?」
オレナは返事の代わりに味見皿を差し出した。ポポが一口飲むと、塩気はちょうどいい。学院も町も、明日また腹を空かせて昼を迎えられる。
「もう一口、味見しても?」
少年が尋ねる。
オレナは大鍋の蓋を閉じ、いつもの厳しい顔で答えた。
「おかわりは一人一杯までです」