署名欄の小さな点
「貸出票に署名を」
記録術師ギルドの受付係シビラは、声を荒らげない。
禁書を借りる賢者にも、絵本を返す子どもにも、同じ細いペンを渡す。返却日を守らない者には微笑みながら延滞金を請求するため、戦場帰りの魔術師より恐れられていた。
筆写師サイルは生まれつき声が出ず、夜の書庫で古文書を写していた。
閉館間際、返却口から黒いインクが逆流した。
床を這い、棚を上り、本の背に書かれた題名を一つずつ食べる。最後に人の名まで奪う書魔《無署名》。名を失った者は、記憶にも歴史にも存在できなくなる。
書庫番たちは自分の名を忘れ、床へ崩れた。
サイルだけは普段から文字で自分を確かめていたため、震える手で《サイル》と掌へ書き、意識をつないだ。
無署名は受付へ迫る。
「創設者の真名を喰えば、この世の記録はすべて白紙だ」
シビラは貸出票を一枚出した。
借受人欄へ、自分の名ではなく小さな点を一つ打つ。
書魔が笑って点を飲み込んだ瞬間、紙面が裏返った。
その点は文字ではない。
世界で最初に書かれ、あらゆる名前の始まりとなった《原初の墨》だった。無署名の全身へ無数の線が走り、喰った名が逆流して本と人へ戻る。
シビラはペン先を一度払う。
書魔は一つの句点まで縮み、貸出票の文末へ収まった。
《返却期限――永遠。持出禁止。》
受付机の底に古い署名が光る。
《記録術師ギルド創設者・万名の母シビラ》
彼女が歴史を書いたのではない。歴史のほうが、彼女の筆跡をまねて続いてきたのだ。
シビラは床のインクを吸い取り紙で拭き、白くなった背表紙を一冊ずつ元に戻す。消えかけた貸出記録も、欠けた一画まで正確に書き直した。倒れた者たちは、灯りの油に酔ったのだと思って目を覚ました。
サイルは目撃したことを紙へ書きかける。
彼女はその紙を取り、末尾へ赤字を加えた。
《閲覧者一名。口外不可。》
青年は笑い、無言で署名する。
翌朝、延滞した賢者が言い訳を並べながら禁書を差し出した。
シビラは新しい貸出票と、いつもの細いペンを置く。
「貸出票に署名を」