耳つき卵サンド
藤代睦は、閉店した祖母の喫茶店で、卵サンドを一人分だけ作った。
出版社の編集長から、今夜中に秘密保持の確認書へ署名するよう催促されている。半年前、睦が企画し書いた原稿は、編集長の名義で刊行され、賞の候補になった。代わりに昇進させるという約束は消えた。
抗議すれば、下書きも打ち合わせも業務上のものだと言われるだろう。編集長は刊行記念の壇上で、着想を得た夜の話まで自分の記憶として語った。客席で拍手した睦は、その映像をまだ家族へ見せられない。業界で働けなくなるかもしれない。家族には、大きな本を担当したとしか話していない。
祖母の店は先月閉じた。原稿に行き詰まるたび、睦は窓際の席で卵サンドを食べた。祖母は内容を尋ねず、ノートの頁が増えた日だけ、サンドイッチを一切れ多くした。鍵を返す前の厨房に、古いレシピ帳だけが残っていた。卵サンドの頁には、茹で時間と辛子の量、それから太い字で〈耳を切らない〉とある。
祖母はパンの耳を残した。柔らかな具を支え、持った指を汚さないからだ。睦は子どものころ、硬いところだけ剥がして皿へ積んだ。
辛子の香りが鼻へ軽く抜ける。卵は舌でほどけるほど柔らかく、耳は噛むと小さく乾いた音を立てた。
睦は中央の白いところから食べた。昔の癖のまま、四辺の耳だけが額縁のように残る。
ノートパソコンには確認書が開いている。その後ろに、初稿の更新履歴、編集長からの修正指示、睦の名前入りの企画書を並べた。送る相手は社内法務ではなく、賞の事務局と外部の相談窓口だ。
指が送信ボタンの上で止まる。
睦は残した耳を一本取り、端から噛んだ。硬さがなくなるまで、ゆっくり咀嚼する。二本目、三本目。最後の一本だけを皿へ置いた。
秘密保持の確認書を閉じ、資料を送信した。
送信済みの表示が出てから、残った一本を持ち上げる。祖母なら「それが持つところ」と言っただろう。
睦は最後の耳を食べきった。
柔らかい中身だけを誰かの名で運ばせないために、今度は自分の手が汚れても、外側まで自分のものとして噛んだ。