葡萄畑の選ばれない房

 沢渡剛生は、二十年勤めた出版社で編集長を外された。

 若い世代へ任せるためだと説明されたが、会議から自分の椅子だけがなくなったように感じた。

 休暇を取り、丘陵の葡萄農園にある宿へ一人で出かけた。

 収穫期の終わりで、畑には採り残された房が少しあった。

 宿の主人は「見た目が揃わないもの」と言い、剛生へ鋏を渡した。

「これも捨てるんですか」

「ジュースにする。鳥より先に採る」

 粒の大きさが違う房、日焼けした房、下の方だけ熟れた房。

 剛生は出版会議で、売れそうな企画だけを選んできたことを思い出した。

 良い原稿でも、時期が違う、棚に合わない、読者が少ないと見送った。

 選ばない側にいた自分が、今は選ばれなかったことへ傷ついている。

 主人の孫娘が、房から傷んだ粒を外した。

「これは食べられる」

 小さな粒を一つ、剛生の掌へ載せる。

 口へ入れると、皮は少し硬いが、中は驚くほど甘かった。

「店には並ばないのに」

「おじいちゃんは、見た目が悪い方が甘いって言う」

「全部?」

「たまに酸っぱい」

 孫娘は正直だった。

 収穫した房を大鍋で煮た。

 木べらで潰すと、紫の汁が出て、台所へ甘酸っぱい香りが満ちる。

 布で濾し、熱いうちに瓶へ入れる。

 剛生はラベルへ日付を書いた。

 肩書ではなく、ただの収穫日だった。

 夕方、畑の端で温かい葡萄ジュースを飲んだ。

 シナモンを少し入れた湯気が、秋の風へ流れる。

「次は何をするんですか」

 主人に訊かれ、剛生は答えに詰まった。

「編集以外、思いつきません」

「なら編集すればいい。椅子は一つじゃないでしょう」

 会社へ戻れば、役職のない仕事が待っている。

 以前なら降格としか見えなかった。

 けれど誰かの原稿を一つ丁寧に読む時間は、会議が減った分だけ増えるかもしれない。

 選ばれない企画を、小さな形で届ける方法も考えられる。

 帰る朝、孫娘が不揃いな葡萄を一房くれた。

「甘いかは分からない」

「それでいい」

 列車で一粒食べると、今度は確かに酸っぱかった。

 剛生は顔をしかめ、それから笑った。

 鞄の瓶から葡萄とシナモンの香りが上がる。

 選ばれなかった房にも、甘い粒と酸っぱい粒が混じり、それを全部煮ると、温かな一瓶になった。