蒸気の向こうの木の椅子
丹治羽澄は、月に一度、朝一番のサウナへ行く。
流行の「整う」という言葉はよく分からない。ただ、熱い部屋と冷たい水と、外気に触れる椅子を順番に巡ると、自分の体が何を感じているか分かりやすくなる。
平日はデザイン事務所で、誰かの要望を形にする。
もっと明るく、もっと柔らかく、もっと目立つように。言葉を受けるたび、自分の好みは後ろへ下がる。
休日のサウナでは、温度も時間も自分で決めた。
朝七時、浴室は空いていた。
体を洗い、湯へ浸かってから、木の扉を開ける。室内には乾いた木と熱した石の匂いがある。
羽澄は上段へ行かず、下段へ座った。
熱さを我慢する必要はない。砂時計も見ず、呼吸が少し苦しくなる前に出る。
水風呂は膝まででやめた。以前なら肩まで入らなければ意味がないと思ったが、今日は膝が十分だと言っていた。
露天の椅子へ座る。
冬の空気が濡れた腕へ触れ、湯気が肌から上がる。庭の隅には小さな柚子の木があり、葉へ朝日が当たっていた。
何も考えないようにするのではなく、風が冷たい、背もたれが硬い、心臓がゆっくり戻っている、と一つずつ確かめる。
二巡目は、サウナへ入らなかった。
代わりに薬湯へ浸かった。湯には薄荷と檜が入っていて、鼻へ涼しい香りが抜けた。
予定した回数をこなさなくても、体が温まればそれでよい。
脱衣所では、濡れた髪を急いで乾かさず、厚いタオルでゆっくり包んだ。水を一杯飲むと、冷たさが喉から腹へまっすぐ落ちた。何分入ったか、何回巡ったかを記録しない朝も、十分に自分のものだった。
風呂上がり、休憩室で温かい甘酒を飲んだ。
生姜が少し入り、舌へ甘さが残る。大きな窓の外では、まだ町が起き始めたばかりだった。
羽澄は携帯を開き、午後の予定を消した。
買い物も、美術展も、来週でよい。今日はこのまま家へ帰り、洗ったシーツで昼寝をする。
外へ出ると、髪から檜の香りが上がった。
冷たい朝の中でも、腕の内側には湯の熱が残っている。
誰にも見えない体の感覚を、自分だけが丁寧に聞く休日。羽澄はマフラーを巻き、歩幅を少し小さくして駅へ向かった。