虫の音を録らない夜
森下晶乃は、音楽制作会社でサウンドディレクターをしていた。
街の雑踏、雨、靴音、食器の触れる音。何でも録り、作品の中へ配置した。耳を澄ますことが仕事になってから、静かな場所でも「使える音」を探す癖が抜けなかった。
寺町の外れへ移り、古民家の土蔵を作業部屋にすることにした。
厚い扉は立てつけが悪く、窓の木枠には隙間がある。晶乃は防音材を注文し、外の音を完全に遮る計画を立てた。
修理を手伝った大工は、秋の虫の声を聞きながら言った。
「ここで全部消すのは、もったいない」
「録音には雑音です」
「住む分には、音だよ」
晶乃は扉へ断熱材を入れたが、窓の隙間は残した。
夜になると、鈴虫とこおろぎの声が土蔵へ入る。録音マイクを立てると、不思議なくらい一匹ずつの位置が分かった。
晶乃は音量を測り、ファイル名をつけ始めた。
〈秋虫_裏庭_01〉
ところが再生すると、実際に聞いた夜より薄く感じた。
次の晩、マイクを持たずに土蔵へ入った。
床へ座り、窓を少し開ける。虫の声は一定ではなく、近くで鳴いたり、急に止まったりする。遠くの寺の戸が閉まる音、風が柿の葉を動かす音、自分が湯呑みを置く音も混じった。
録音しなければ失うと思っていた。
けれど、失うからこそ今だけの音になるのかもしれなかった。
晶乃は目を閉じた。
仕事の評価も納期もない聴き方は、耳の奥をゆっくりほどいた。
翌日、防音材の残りで土蔵の棚を作った。
録音機材を置く棚と、茶器を置く小さな棚。仕事をする日もあれば、湯を沸かすだけの日もある。
近所の人が新米を持ってきた夜は、土鍋で炊き、味噌汁を作った。蓋を開ける音と米の湯気を、晶乃は録らなかった。
秋が深まり、虫の声は少なくなった。
静かになった庭にも、柿が落ちる音、薪がはぜる音がある。
土蔵には炊きたての米と味噌の香りが残り、窓の隙間から冷たい夜気が入った。
晶乃は何も保存せず、聞こえたものを聞こえたまま胸へ置いた。録らない夜は消えていくのではなく、体の内側で静かに温度へ変わっていた。