蚊取り線香の赤い点

 由布は、部屋の照明を消してからベランダへ出た。

 明るいまま窓を開けると虫が入る。だから網戸を閉め、足元には小さな蚊取り線香を置く。渦巻きの先だけが赤く、暗闇の中でゆっくり進んでいた。

 午前零時半。

 室外機が回るたび、煙が右へ流れる。

 止まると、まっすぐ上がる。

 また回ると、右へ流れる。

 由布は折り畳み椅子へ座り、今日一日ほとんど声を出さなかったことを思い出した。在宅勤務の会議ではマイクを切ったまま、チャットだけで返事をした。宅配は置き配。夕食は一人分。喉が乾いているのに、自分の声を確かめる理由がなかった。

 向かいの建物のベランダにも、赤い点が一つ見えた。

 煙草かと思ったが、動かない。こちらと同じ蚊取り線香らしい。二つの赤い点は、離れた暗闇でそれぞれ少しずつ短くなっていた。

 由布は誰かの姿を探さなかった。

 やがて細い雨が降り始めた。

 手すりに一粒。

 室外機の上に一粒。

 蚊取り線香の受け皿に一粒。

 向かいの赤い点のそばへ、腕だけが伸びた。持ち主は受け皿を軒下へ移し、すぐ暗い部屋へ戻る。点は消えず、少し奥でまた赤く見えた。

 由布も自分の受け皿を窓際へ寄せた。

 同じ行動をしたからといって、知り合いになるわけではない。相手がこちらを見たかどうかも分からない。それでも、雨から守るものが夜の向こうにも一つあると分かった。

 由布は声を出して「あ」と言ってみた。

 誰にも届かない、小さな一音だった。喉は思ったより普通に鳴った。

 雨が少し強くなる。

 向かいの赤い点も、雨の奥でまだ消えていなかった。由布の一音に返事はない。それで困ることもなかった。声は誰かに受け取られて初めて存在するものではなく、喉から出て、自分の耳へ戻るだけでも今夜には十分だった。

 室外機が止まり、煙がまっすぐ上がる。

 由布は渦巻きが一周ぶん短くなるまで座り、それから火を消した。明日も誰かと話せるかは分からない。けれど今夜の自分の声は、暗い部屋へ持ち帰ってもよさそうだった。