衛星電話が切れる前に
午前十一時五十分。荒牧航希は西オーストラリアの採掘現場で、帰国ヘリを待っていた。土岐芹香と話せる衛星回線は、正午までの十分間だけ開く。
防水袋には、東京の部屋の合鍵が入っている。芹香が赤いビニールテープを巻き、「砂漠でも見失わないように」と渡したものだ。航希は二年間、三か月ごとの休暇で帰るたび、その鍵を使った。冷蔵庫の中身は変わっても、玄関の傘だけは二本のままだった。赤いテープは一度剥がれ、芹香が帰国休暇の最終日に巻き直した。その下には、航希が最初に書いた部屋番号が薄く残っている。帰国のたび芹香は鍵を内側から回し、航希は外から開ける。どちらが先に『ただいま』を言えるか競うのが、短い休暇の始まりだった。
通話がつながる。
「今日、帰る」と航希は言った。「契約を更新しなかった。もう遠距離は終わりにする」
芹香は長く黙った。
『帰ってこなくていい』
風で声が割れた。
航希は、驚くより先に納得した。前回の休暇で、芹香の部屋から自分の服が片づけられていた。彼女は「改装するから」と言ったが、合鍵の話をすると目を逸らした。二年は、人を待たせるには長すぎた。
「分かった。鍵は空港から送る」
『違う、私が――』
衛星が切り替わり、雑音だけになる。
十一時五十六分。現場事務所のプリンターが動いた。通信の混雑で遅れていた人事書類だった。新任の医療スタッフ欄に、土岐芹香。赴任日は翌日。住所はこの採掘現場の居住区。
続いて短い音声が復元される。
『帰ってこなくていい。私がそっちへ行く。部屋も解約した』
航希はヘリの係員へ駆け寄った。帰国便は変更できるが、現場との契約は午前零時で終了し、再雇用には数か月かかる。芹香は、彼が更新すると信じて東京の仕事と部屋を手放していた。
正午。衛星電話が切れる。最後に届いたのは、空になった玄関の写真だった。二本あった傘は一本もない。
「残るんですか」と係員が聞く。
航希は防水袋の合鍵を握った。残れば無職のまま現場に滞在できず、帰れば芹香とすれ違う。どちらを選んでも、黙って決めた代償は残る。
ヘリの回転翼が上がる。
彼は合鍵を現場事務所の芹香宛て封筒へ入れ、帰国便へ乗り込んだ。