裏返るコースター

喫茶「岬角」の閉店後、御厨廉士と砂金静瑠は、二枚のコースターを挟んで座っていた。

十五年間、毎週金曜の夜にここで演奏した。

廉士がピアノ、静瑠が歌。

客が三人の日も、立ち見が出る日も、最後は必ず同じ古いバラードで締めた。

今夜が最後だった。

静瑠が「もう歌わない」とだけ告げ、理由を話さなかったからだ。

「じゃあ、これで」

静瑠が自分のコースターを裏返す。

白い面が下になった。

手を離した途端、ぱたん、と元へ戻った。

廉士は眉を上げた。

「店の備品まで納得してない」

「湿気でしょ」

静瑠はもう一度裏返し、灰皿を重しにした。

灰皿を外すと、また表になった。

廉士のコースターも同じだった。

二人はしばらく、子どもの遊びのように何度も裏返した。

閉店後の静かな店で、ぱたん、ぱたんと乾いた音が続く。

「引き止めてほしいの?」と廉士が言った。

「そういう言い方、嫌い」

「じゃあ理由を言え」

「飽きたの」

「嘘だ」

「別の仕事が忙しい」

「嘘」

「あなたの伴奏が下手」

「それは十五年前からだ」

静瑠が笑いかけ、すぐ口を結んだ。

廉士はその瞬間、彼女の左耳に小さな補聴器があることに気づいた。

髪で隠していた。

「いつから」

「去年」

「聞こえないのか」

「高い音から少しずつ」

静瑠は水のグラスを見た。

「自分の声が、思った場所にあるのかわからない。客が拍手しても、同情に聞こえる。あなたに言えば、音を減らして、曲を変えて、全部私に合わせるでしょう」

「当たり前だ」

「それが嫌なの」

廉士は言い返しかけ、やめた。

彼女が守りたいのは歌ではなく、対等だった十五年なのだとわかった。

「じゃあ辞めろ」

静瑠が顔を上げた。

「簡単に言うのね」

「簡単じゃない。でも、俺のために続けるな」

「あなたは?」

「一人で弾く。たぶん退屈だ」

「客、減るよ」

「もともと三人の日がある」

「二人になるね」

「店主と俺で二人だ」

静瑠は泣きそうな顔で笑った。

「最後の曲、今日ちょっと走った」

「知ってる。追いつくの大変だった」

「言いなさいよ」

「最後まで対等でいたかったんだろ」

しばらく、何も話さなかった。

やがて静瑠が言う。

「十五年、ありがとう」

廉士は答えた。

「こちらこそ。君の後ろで弾けて、楽しかった」

二枚のコースターが同時に裏返った。

今度は戻らなかった。

二人は顔を見合わせた。

終わったのだと、ようやく認められた。

店を出る前、廉士が尋ねた。

「来週、客として来る?」

「伴奏が上手くなってたら」

「じゃあ再来年だな」

扉のベルが鳴り、静瑠は夜の町へ出た。

テーブルには裏返ったコースターが二枚。

別れは沈黙ではなく、言い切った言葉の形をしていた。