誕生日を忘れるたび

井ノ越慧は、六十歳の誕生日を迎えるたび、ひとつ昔を失った。人生整理AIが「家族関係の未完了」を解くまで一日を反復し、その作業領域として古い記憶を一つずつ上書きしていた。

家族がケーキを囲み、午後九時に蝋燭を吹き消す。眠りにつくと、また誕生日の朝へ戻る。その代わり、前の人生から記憶が一つ消えた。

最初に失ったのは、小学校の校歌だった。次は初任給で買った靴。十回目には父の声を思い出せなくなった。

慧は焦り、ノートへ記憶を書いた。だが紙も端末も朝には元へ戻る。残せるのは、自分の頭だけ。その頭が毎晩少しずつ空になる。

妻の美智留は、毎朝同じ笑顔で「六十歳おめでとう」と言った。娘の佐和良は遅れて来て、父と目を合わせなかった。二人は五年前から疎遠らしい。理由を尋ねると、美智留は困った顔をした。

「あなたが、佐和良の結婚を認めなかったから」

慧には記憶があった。相手が低所得で、娘を苦労させると思った。正しい父親であろうとした。

二十回目、妻との初デートを失った。三十回目、娘が生まれた日の匂いを失った。慧は誕生日を終わらせるため、家族を喜ばせる方法を試した。高価な贈り物、名店の予約、謝罪の演説。どれも夜になると失敗した記憶へ変わり、朝にはまた一つ過去が消えた。

四十七回目、慧は妻の名前を忘れた。

朝食の席で「あなた」としか呼べず、美智留は冗談だと思って笑った。慧はその笑顔を見て、自分が何を守ろうとしていたのか分からなくなった。

その夜、佐和良が帰ろうとしたとき、慧は呼び止めた。

「結婚に反対した理由を、もう覚えていない」

佐和良は冷たい顔をした。

「都合がいいね」

「そうだ。だから、覚えていないまま謝る。僕が正しかったかどうかじゃなく、君の人生を僕の安心に使ったことを」

娘は許さなかった。ただ、玄関で泣いた。

慧は蝋燭を吹き消さず、一本ずつ指で折った。

午前零時を越え、六十一歳の朝が来た。

失った記憶は戻らなかった。妻との出会いも、娘の幼い声も、穴のままだった。慧は家族へ、自分の過去を教えてもらいながら暮らし始めた。

佐和良は時々しか来ない。それでも来るたび、同じ話をする。慧は初めて聞くように笑う。

人は記憶の量で家族になるのではない。忘れたあとにも、関係を作り直す意思が残るかどうかだ。