誰かの忘れた文庫本
文庫本は、黄色い椅子の真ん中に伏せて置かれていた。
表紙には雨粒の丸い跡があり、ページの間からコインランドリーのレシートがのぞいている。
伊吹は洗濯物を機械へ入れ、その本の端へ座った。
午前零時五十五分。蛍光灯は白く、空調は一定で、乾燥機が二台並んで低く回っている。窓の外の雨は細く、街灯の下だけ糸のように見えた。
本には触れないつもりだった。
最近、伊吹は長い文章を読めなくなっていた。集中が切れるたび、読めない自分を確かめることになり、本棚の背表紙を見るだけで疲れた。仕事の資料は必要な箇所だけ探し、友人から届くメッセージも通知欄で意味を取る。以前は眠れない夜ほど本を開いたのに、今は一ページの途中で同じ行へ戻ってしまう。
洗濯機の残り時間は二十八分。
乾燥機が回る。
空調が鳴る。
雨が窓を打つ。
文庫本のページが風で一枚めくれた。
伊吹は本を起こした。持ち主を示す名前はない。挟まっていたレシートには、洗濯乾燥六十分快速コースと印字され、時刻は一週間前だった。
忘れ物なら受付へ、と壁に書いてある。けれど店員はいない。
伊吹は最初のページだけ読んだ。
知らない町へ着いた人物が、駅前のベンチで朝を待っている。何かが始まりそうで、まだ何も起きていない。二ページ目へ進みかけ、やめた。
自動販売機で水を買い、戻る。
文庫本がなくなっていた。
入口のガラスの向こうに、黒い傘を差した人が見えた。片手に本を持っている。忘れたことに気づいて取りに来たのか、置いた人とは別なのか分からない。その人は一度も振り返らず、雨の向こうへ消えた。
椅子には、本の重さでできた浅いへこみだけが残った。
伊吹は少しだけ続きを知りたいと思った。知らない人が選び、一週間持ち歩き、雨の夜に取り戻した本。その続きまで知れば、相手の暮らしへ踏み込みすぎるような気もした。
けれど追いかけなかった。題名も作者も見ていない。あの人物が朝を迎えたかどうかは、自分には分からないままでいい。
洗濯機の中では、服が何度も同じ場所へ戻りながら、少しずつきれいになっていた。
伊吹は残り時間を最後まで待った。
今夜は一ページ読めた。それだけで、部屋へ戻るには十分だった。