誰もいない教室で名前を呼ぶ
夏休みの教室で、私は人の名前を呼ぶ練習をしていた。
「ましろ」
小さすぎる。
「藁科ましろ」
出席確認みたいだ。
「ましろ」
声が裏返った。
藁科とは一年半、同じクラスだった。普段は「藁科」と呼ぶ。彼女も私を名字で呼ぶ。それで困ることはなかったのに、終業式の日、駅前で偶然会ったとき、藁科の妹が彼女を「ましろちゃん」と呼んだ。
制服ではない白いワンピース姿で振り返った彼女が、急に学校の外にも存在する人に見えた。
夏休みに入ってから、その響きが頭から離れない。
私は放送委員の当番で、昼の機材点検に来ていた。作業を終えたあと、誰もいない教室へ寄り、窓を閉めたまま練習していた。校庭の部活の声も遠く、机と椅子しか聞いていないはずだった。
「呼んだ?」
後ろの掃除用具入れの陰から、藁科本人が出てきた。
私は驚いて机に膝をぶつけた。
「なんでいるの」
「忘れ物。あと、三回くらい呼ばれたから」
「二回」
「最初の小さいのも聞こえた」
逃げたかった。けれど出口は藁科の後ろにある。私は黒板を見つめたまま言い訳を探した。
「発声練習」
「私の名前で?」
「母音の並びがいい」
「ましろ、って?」
本人の声で聞くと、さらに恥ずかしい。
藁科は私の前の席へ座った。私服の袖口に、小さな向日葵が刺繍されている。学校では見たことのない黄色だった。
「じゃあ、私も練習する」
彼女は私の名字を呼び、首を振る。
「違うな」
次に、私の下の名前を呼んだ。
たった三音なのに、教室の空気が変わった。私は返事を忘れた。
「返事は?」
「はい」
「出席確認みたい」
二人で笑った。
帰るころには、互いの名前を何度も呼びすぎて、最初の特別さは少し薄れていた。それでも昇降口で別れるとき、藁科――ましろが、もう一度だけ私の名前を呼んだ。
私は今度、「またね」と返した。
九月、教室ではまた名字に戻った。友達の前で急に変える勇気はなかった。
ただ誰もいない廊下ですれ違うときだけ、私たちは夏休みに覚えた呼び方を使った。