赤ペンの余白
文乃は、作文を返される瞬間が嫌いだった。
遠野先生の赤ペンは容赦がない。主語が曖昧、比喩が重い、説明しすぎ。原稿用紙の余白は、いつも赤い字で埋まった。
それでも文乃は、毎月一作、短い物語を書いて国語準備室へ持っていった。
一年の春は、空を飛ぶ猫の話。
二年の冬は、時間を食べる時計の話。
三年の秋は、卒業できない幽霊の話。
先生は一度も「上手」とは書かなかった。最後に必ず、同じ言葉だけを添えた。
――続きを読みたい。
卒業式の日、文乃は最後の原稿を渡した。題名は『三月の廊下』。卒業生が誰もいなくなった校舎を歩く話だった。
式後、先生に呼ばれ、国語準備室へ行く。
返された原稿には、赤い字が一つもなかった。
文乃は頁をめくった。誤字も、曖昧な主語も、直されていない。最後の余白も白いままだった。
「何もないんですか」
思ったより責める声になった。
「忙しくて読んでない?」
「読んだ」
「じゃあ、直すところがない?」
「山ほどある」
先生は机の引き出しから、一本の赤ペンを出した。三年間使ったもので、軸の印字が消えかけている。
「今日からは、自分で直せ」
「急すぎます」
「卒業はだいたい急だ」
文乃は白い余白を見た。ずっと欲しかったはずの無傷の原稿が、今は見放されたように思えた。
先生は最後の頁を指さした。紙の端ぎりぎりに、細い赤字が一行だけあった。
――この先は、先生ではなく読者として続きを待つ。
文乃は何度も読んだ。
「読者って、厳しいですか」
「先生より厳しい」
「途中で読むのやめます?」
「つまらなければ」
「最低」
「だから面白くしろ」
廊下から、卒業生が先生を呼ぶ声がした。文乃は赤ペンを受け取り、原稿の題名の横へ小さく日付を書いた。
三月一日。
その下に、初めて自分で赤字を入れる。
――ここから書き直し。
先生が覗き込み、頷いた。
文乃は原稿を胸に抱えて準備室を出た。校舎は物語と同じように、卒業生の声が少しずつ消えていた。
けれど白い余白は、終わりではなかった。
これまで先生の言葉があった場所に、これから自分の続きを書けるだけの広さが残されていた。