赤絹の鞘

ヴィハーンは刀を抜き、赤絹の鞘だけを腰へ残した。

王弟ケサルの佩刀だった。鞘の内側には王族の赤絹が張られ、抜けば刃に赤い繊維がつく。敵将ラナークは、この刀を奪うため三年追い続けている。

「顔まで似せる必要はない」

ケサルが言った。

二人は同じ背丈だが、似ているのはそれだけだった。王弟の手には指輪があり、ヴィハーンの手には荷綱の傷がある。砂塵は身分まで平らにする。今夜は砂塵が顔を隠す。

敗軍四百は、双子峰の石門へ退いている。王弟が本隊にいる限り、ラナークの騎兵は執拗に追う。そこでヴィハーンが赤絹の鞘を帯び、北の巡礼路へ走る。ケサルは兵と共に南の涸れ谷へ入る。

「鞘を捨てれば、途中で逃げられる」

ケサルはそう言って、小さな金貨袋を渡した。

ヴィハーンは受け取らなかった。

「捨てれば敵は南へ戻る」

「死ぬつもりか」

「生きるつもりで囮を務める者は、曲がり角ごとに逃げ道を見る。追手もそれを見る」

彼は王弟の白い外套を羽織った。赤絹の鞘をわざと半ば抜けた帯へ差す。落ちそうで落ちない位置。敵の目はそこへ吸われる。

北道へ出ると、すぐ蹄の群れが追ってきた。ヴィハーンは速度を上げすぎず、何度か振り返った。王族らしい尊大さを演じるのが、剣を振るうより難しかった。

巡礼堂の前で馬を止める。ここから先は崖道で、逃げ場がない。敵の先頭にラナークの金兜が見えた。

「ケサル、その鞘を置けば首だけで済ませる」

ヴィハーンは笑った。

「首だけで済んだ男を見たことがない」

彼は鞘を抜き、石段へ投げた。ラナークの兵が一斉に止まる。誰が王族の証を拾うか、互いの顔を見た。欲は軍列を乱す。王を憎む者ほど、王の証には弱かった。

ヴィハーンは巡礼堂の鐘綱を切った。大鐘が石段へ落ち、鞘の手前を塞ぐ。敵は迂回するため、さらに足を止めた。

南の双子峰で松明が四つ灯る。ケサルと全軍が石門へ入った合図だった。

ヴィハーンは王弟の刀を構えた。刃には鞘の赤絹が数本まとわり、血より鮮やかだった。

彼が最初の騎兵へ踏み込んだ瞬間、双子峰では石門を閉じよという命令が下った。