赤鉛筆で引いた朝
長峰彩葉は、投稿フォームの「著者名」という欄で手を止めた。編集者として何百人もの肩書きを整えてきたのに、自分の名前だけは画面に置く場所がわからなかった。机には、短く削られた赤鉛筆がある。高校の新聞部で、最後の校内新聞を作った朝に使ったものだ。
卒業号の締切前夜、印刷室には三年生と二年生が残っていた。記事を並べると、紙面が半頁足りなかった。削れるのは、彩葉が書いた「編集後記」だけだった。
三年間、取材の予定を組み、誤字を直し、他人の記事の見出しを考えた。最後くらい自分の文章を載せたかった。けれど後輩の特集を切れば、彼女が一か月追いかけた取材が消える。
彩葉は赤鉛筆で、自分の原稿に二本の斜線を引いた。
輪転機が回り出したのは午前五時だった。校舎は暖房が切れ、吐く息が白かった。赤鉛筆の削りかすが机に散り、窓の向こうで空が新聞紙と同じ灰色から薄い桃色へ変わっていった。吐き出される紙はまだ温かく、インクの匂いが窓の結露に混じった。完成した新聞のどこにも、彩葉の名前はなかった。
皆が机へ突っ伏したあと、二年生の一人が一部を持ってきた。最終頁の余白に、赤鉛筆で小さく書かれていた。
《編集 長峰彩葉》
「勝手に入れたら怒られます。だから、先輩の分だけ」
彩葉は笑い、赤鉛筆を受け取った。名前は読者全員に見えなくても、紙面から消えたわけではなかった。
大学を出てから、彩葉は広告記事の編集をしている。依頼された声に整え、署名のない文章を納めるのは得意だった。自分の経験を書いた原稿だけは、投稿直前になると閉じた。誰かの欄を奪うようで、名乗ることが恥ずかしかった。
今夜の原稿は、前の仕事を辞めた日のことを書いた短い随筆だ。格好よい結論はなく、電車を一本見送ったことしか書いていない。
彩葉は赤鉛筆で紙の校正刷りに最後の丸をつけた。削るべき行は、もうない。
著者名の欄へ、本名を打つ。
送信後の白い画面に、朝の印刷室の光が重なった。今度の一部は、誰か一人だけの余白ではない。
彩葉は短くなった赤鉛筆を、まだ使える方を上にして立てた。