起きなかった記事

纐纈杏慈が夜勤デスクをしていると、朝刊の余白に文字が現れた。

《市営バス、定刻に到着》

《商店街の火災、発生せず》

《迷子の男児、母親の手を離さず》

どれも記事にならなかった出来事だった。

赤鉛筆を握っていたのは、向かいの席の榎波岳史だった。

五年前、取材中の土砂災害で亡くなった記者だ。

「相変わらず、ニュースにならないことばかり書くな」

杏慈が言う。

岳史は笑い、また余白へ書いた。

《榎波記者、現場へ向かわず》

杏慈は紙を伏せた。

あの日、現場へ行く予定だったのは杏慈だった。

子どもが熱を出し、岳史に交代を頼んだ。

雨は強かったが、避難指示はまだ出ていなかった。

岳史は「貸し一つ」と笑って出発し、戻らなかった。

杏慈はその後、災害取材を続けた。

危険区域の検証記事で賞を取り、講演にも呼ばれた。

交代を頼んだことは、社内の誰も責めなかった。

だから自分だけは忘れてはいけないと思った。

岳史の赤鉛筆が動く。

《杏慈の娘、発熱せず》

《杏慈、予定どおり現場へ》

《岳史、娘へ土産を買う》

起きなかった記事が余白を埋めていく。

そこでは岳史が生き、杏慈が死んでいた。

「それが正しかったと言いたいのか」

岳史は首を振った。

《土砂、崩れず》

杏慈は息を止めた。

誰も死なない一行だった。

だが現実にはならなかった。

新聞は起きたことを書く。

起きなかった無数の可能性は、紙面の外へ捨てる。

杏慈は仕事でそれを知っていたのに、自分の人生だけは一つの「もし」に縛りつけていた。

「お前は、俺を恨んでないのか」

岳史は何も書かない。

幽霊に答えを求めた自分が、急に卑怯に思えた。

杏慈は赤鉛筆を取り上げ、余白へ書いた。

《杏慈、交代を頼む》

《岳史、引き受ける》

《二人とも、その時点では明日を知らない》

岳史は読んで、ゆっくりうなずいた。

午前四時、輪転機が動き始めた。

岳史の姿は音の中へ薄れていく。

最後に赤鉛筆がひとりで動いた。

《榎波記者の記事、読まれなくなる》

「それは起こさせない」

杏慈が言うと、岳史は得意そうに笑って消えた。

朝刊の紙面から、余白の文字はすべて消えていた。

赤鉛筆の跡だけが、杏慈の指に残った。

その日、杏慈は災害記事の末尾に、取材協力者として岳史の過去記事を引用した。

罪滅ぼしではなく、仕事を引き継ぐために。

記事にならなかった朝も、誰かが生きて迎えている。

それを初めて、救いだと思った。