踊り場の青いノート
九重棗は、三階と四階の間で青いノートを受け取っていた。
相手は一学年上の生徒会役員。名前は知っているが、教室では話さない。棗が生徒会選挙へ出ると決めた日、「原稿を見てやる」と渡されたのが始まりだった。
棗が演説を書き、翌朝、踊り場の窓台へ置く。
昼には赤い書き込みが増えている。
――「明るい学校にします」は具体性なし。
――「全員の意見を聞きます」は不可能。
――ここで一呼吸。
――この一文は、君の言葉に聞こえる。
厳しかった。
棗は毎日書き直した。
――声が震えたらどうしますか。
――震えたまま続ける。
――忘れたら。
――顔を上げる。原稿は逃げない。
――落選したら。
――翌日も学校はある。
演説当日、体育館の舞台袖で青いノートを開いた。
最後の頁に、赤い字があった。
――質問。なぜ立候補した?
棗は何度も答えを書いて消した。
学校を変えたいから。
自分を変えたいから。
先輩のようになりたいから。
どれも借り物に見えた。
出番を呼ばれる。
棗は空欄のまま舞台へ出た。
マイクの前で、用意した挨拶を忘れた。全校生徒の顔が並び、膝が震える。
体育館の後ろ、扉のそばに先輩がいた。
棗は原稿を見ずに言った。
「私は、話すのが得意ではありません」
会場が静かになる。
「だから、言えなかった意見がどれくらいあるのか、気になります。全部聞くとは約束できません。でも、言えなかったことを置ける場所を作ります」
声は最後まで震えていた。
演説後、踊り場へ戻ると、先輩が窓台にもたれていた。
「原稿と違う」
「すみません」
「謝るところじゃない」
「質問の答え、今のでいいですか」
「日記に書いて」
棗は青いノートを開いた。
――言えない人の言葉を、なくしたくないから。
先輩はその下へ、赤い丸を一つ描いた。
選挙結果が貼り出されたのは翌日だった。棗の名前の横に、当選の二文字がある。
教室へ戻る途中、踊り場で先輩とすれ違った。
「もう添削は終わりですか」
「役員になったら、自分で直せ」
「交換日記も?」
「次は報告書」
先輩は青いノートを棗へ返した。
最後の頁には、小さく追記されていた。
――声が震えたら、頁をめくる音だと思えばいい。
棗はそれを消さず、最初の生徒会ノートの表紙裏へ書き写した。
三階と四階の間は、もうただの階段だった。それでも大事な言葉を書く前には、今もあの踊り場の窓を思い出す。