転送しない郵便
鵜飼睦実は、郵便局でもらった転居届を三日間、冷蔵庫に貼っていた。
次の部屋はもう決まっている。今より新しく、駅にも近い。引っ越し会社も予約した。あとは転送開始日を書くだけだった。
睦実は社会人になってから、ほぼ一年ごとに住む町を変えてきた。壁の薄さ、坂の多さ、近所の工事。理由は毎回あった。けれど本当は、顔を覚えられる前に離れるのが楽だった。行きつけができると、行かなくなった理由を考えられる。隣人と挨拶を交わすと、引っ越すときに別れが増える。
二十九歳の今年も、同じように箱を集めた。
冷蔵庫の転居届の隣には、二通の郵便が挟まっている。一通は新居の契約案内。もう一通は、近所の市民合唱団から届いた小さな発表会の招待状だった。半年前、思い切って見学し、そのまま毎週歌うようになった。
招待状の裏には、仲間の字で〈来年は一緒に舞台へ〉と書かれていた。
新しい町からでも通える。電車で四十分。ただ、睦実は知っていた。遠さを理由に少しずつ休み、やがて誰にも気づかれないように消えるだろう。
引っ越しをやめれば、今度は残る理由を自分で引き受けなければならない。近所で顔を覚えられ、欠席すれば心配され、別れたいときには言葉が必要になる。
睦実は引っ越し会社へ電話し、予約を取り消した。キャンセル料を聞いて、思わず「高いですね」と言うと、担当者は申し訳なさそうに謝った。
電話のあと、転居届を冷蔵庫から剥がす。破る前に、空白の新住所欄を見た。
すでに詰めた箱には、「台所」「冬服」「すぐ開ける」と書いてあった。睦実は一本ずつ線を引き、箱を開けた。残ると決めても、元の生活へ戻るわけではない。移動のために一度ばらした部屋を、今度はここに居続ける人の手で組み直さなければならなかった。
新居の違約金も残った。睦実は領収書を捨てず、発表会の楽譜へ挟んだ。残ることにも移動と同じ費用がかかる。
睦実はそこへ何も書かず、四つに裂いた。発表会の招待状だけを、磁石で元の場所へ戻した。