退職日に届いたアクリルスタンド
樫村凛子の退職日は、最後まで会社らしい灰色の一日になるはずだった。
私物を段ボールへ詰め、机を拭き、引き継ぎ書を提出する。女性アイドル〈Mellow Note〉の結を応援していることは、三年間誰にも言わなかった。上司が誰かの趣味を「時間と金の無駄」と笑うたび、机の奥の会員証をさらに深く隠した。結の歌を聴いて朝の電車へ乗れた日も、ライブの予定があるから理不尽な残業を切り上げられた日もあった。けれど職場では、その力を偶然の機嫌として処理してきた。
午後、受付から宅配便が届いた。転送設定が間に合わなかった限定アクリルスタンドで、箱には大きく〈結・記念衣装〉と印刷されていた。受付係が箱を持ってフロアを歩くたび、その文字が白い壁の間を旗のように進んでくる。凛子には、隠してきた三年分が自分の机へ配達されるように見えた。
上司の長浜啓が目を細める。
「樫村さんの? 最後の日にずいぶん子どもっぽい荷物だね」
いつもの凛子なら、家族の代理ですと答えた。しかし今日は、社員証を返す日だった。ここでまで自分を置いていく必要はない。
「私のです。ずっと応援しているアイドルです」
声は震えたが、訂正しなかった。
長浜が何か言う前に、後輩の皆本梢が立ち上がった。
「樫村さん、前に落ち込んでた私へ『好きなものを一個残して帰ろう』って言ってくれましたよね。これが樫村さんの一個なんですね」
凛子は、その言葉を覚えていなかった。自分は趣味を隠しながら、誰かには好きなものを守れと言っていたらしい。
退職の挨拶を終え、段ボールの一番上にアクリルスタンドの箱を置く。隠すための書類はもう載せなかった。
エレベーター前で、梢が小声で聞いた。
「ファンクラブって、途中からでも入れますか。最近、結ちゃんが気になってて」
凛子は初めて職場の人へ、入会方法を説明した。扉が開く。
段ボールの側面には会社名があり、上には結の名前がある。凛子は両方を抱えて乗り込み、会社名のほうだけを一階の回収箱へ置いた。