避難しない町
小田柿深雪の町では、災害警報と同時に恐怖抑制剤が水道へ混ぜられた。
地震や洪水のたびに起きるパニックを防ぐためだ。住民は落ち着いて避難し、買い占めも交通事故も減った。深雪だけは薬への重いアレルギーがあり、警報時には配給水を飲まなかった。
そのため彼女は町で「騒ぐ人」と呼ばれた。訓練のサイレンで心臓を速くし、非常袋を三つも用意し、川の水位を何度も確認する。夫は「また大げさだ」と笑った。
台風の夜、河川AIが避難勧告を出した。町内放送は穏やかに繰り返したが、薬を飲んだ住民たちはテレビを見続けた。恐怖がないため、雨音も警告も切迫して聞こえない。
「一時間後に堤防越水の可能性があります」とAIは告げた。
「可能性でしょ」と夫はソファから動かなかった。
深雪は震えていた。窓の外の暗さ、側溝の逆流、遠くで崩れる音が、身体中に逃げろと叫んでいた。だが家族を置いては行けない。
彼女は近所を回り、玄関を叩いた。皆、親切に応対し、「落ち着いて」と逆に慰めた。避難所へ向かう人はほとんどいなかった。
深雪は消防団の古い鐘を倉庫から持ち出し、通りで鳴らした。金属音に住民が顔を出す。
「怖くなくても、水は来ます!」
彼女は泣きながら叫んだ。薬を飲んでいない者の発言は判断が偏っていると、町内AIが放送した。それでも、深雪の様子を見て幼い子の母親が動き、足の悪い老人を連れた家族が続いた。
避難所へ着いて二十分後、堤防が越えた。町の低地は胸の高さまで浸水した。夫も、最後には深雪に引かれて逃げていた。
翌朝、救助された住民の一人が言った。
「怖がらせるなんてひどいと思った。でも、怖くないまま死ぬところだった」
制度は見直され、薬は希望者だけになった。行政は「適切な警戒心」という新しい指標を作ったが、深雪は数値化に反対した。
彼女は地域の防災講座で、恐怖を消す方法ではなく、怖いときに何をするかを教えた。手が震えても靴を履く。泣いても隣人を呼ぶ。判断できなければ、先に高い所へ行く。
次の訓練の日、夫は誰より早く非常袋を背負った。
「怖い?」と深雪が聞くと、彼は頷いた。
「君がまた鐘を鳴らすほうが怖い」
二人は笑いながら坂を上った。恐怖は消えなかったが、もう深雪一人の異常ではなかった。