部屋に鳴らす音
芦田佳乃の部屋は、夜になるほど静かだった。
転勤で引っ越して半年。テレビは字幕で見て、音楽はイヤホンで聴く。隣人へ迷惑をかけたくないから、と自分には説明していたが、本当は部屋に音を出すと、一人でいることがはっきりするのが嫌だった。段ボールも三箱だけ開けずに残し、ここを仮住まいのように扱っていた。
会社では転勤期間を「当面」としか聞いていない。戻るかもしれないから棚を買わず、友人を呼ぶほど整っていないから誰も誘わない。半年後も、佳乃は床に座って食事をし、住所を書いた宅配伝票を見るたび、ここは自分の家ではないように感じた。
ある夕方、廊下で女の子が床へ耳を近づけていた。すず、五歳。同じ階に住む祖母の家へ遊びに来て、鈴のついた玩具をなくしたらしい。
「音、聞こえる?」と佳乃が訊く。
「こっちは洗濯機。こっちはお皿。おねえさんの部屋は、何の音?」
すずが佳乃の扉を指す。
「今は誰もいないから、静かだよ」
言った直後、自分も人数に入れていないことに気づいた。
「おねえさんいるのに?」
佳乃は鍵を持った自分の手を見た。すずは首を傾げたまま、ポケットから小さな鈴を取り出した。探していたのとは別の、予備らしい。
「帰ったら一個鳴らして。部屋が返事するか聞いて」
「部屋は返事しないよ」
「じゃあ、まだ寝てる」
祖母が迎えに来ると、すずは別の階へ玩具を探しに行った。佳乃は扉を開け、いつものように音を立てないよう靴を脱いだ。
廊下では、遠くの部屋から包丁の音と笑い声がした。どれも大きくはないのに、誰かが暮らしていると分かる。佳乃の部屋だけが迷惑をかけないよう息を止め、その静けさを佳乃自身へ返していた。
開けていない箱の一つに、実家から持ってきたガラスの風鈴が入っている。夏が終わっていたので、出す機会を逃していた。季節外れだし、音は隣へ届くかもしれない。
箱を開けると、短冊は引っ越しのときの新聞紙に挟まれ、折れ目がついていた。佳乃は指で伸ばし、空いた釘へ糸を通す。仮住まいの壁に、自分の物を掛けるのは初めてだった。
佳乃は窓辺に風鈴を掛けた。風鈴の箱には、実家の住所を書いた古い送り状も残っていた。佳乃はそれを剥がして捨て、今の窓辺へ短冊の向きを合わせた。ここで鳴るための準備を、自分の手で一つ終えた。
窓を指一本ぶんだけ開ける。冷たい風が入り、ガラスが一度、細く鳴った。
反響が消える前に、佳乃はもう少し窓を開いた。